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五輪をめぐる総力戦は終わらない ~『日本代表論』を読んで~

日本代表の試合を見ると、不思議と日本代表を応援してしまう。

こう思ったり、あるいはこの一文の「不思議と」にすら違和感を抱く人は多いのではないだろうか。
つまり現在、日本代表は応援して当たり前のものになっている。

スポーツ社会学者やスポーツ史、スポーツジェンダーの研究者たちがさまざまなテーマで記した『日本代表論』は、
日本代表が、ここまで応援され、期待される存在になったかを紐解く一冊になっている。

特に日本代表が出来上がるまでの経緯に、現代との類似点が非常に面白い。この文章では概要だけ紹介したい。

・戦間期に浮上した国力誇示の場

戦前の日本にも日本代表はあり、中国、フィリピンとの1913年第1回極東オリンピック大会に日本代表が参加していた。しかし当時は大日本体育協会(今でいうと、ざっくりJOC)ではなく、大阪毎日新聞社が選手を派遣し、明大野球部が参加するなど、国として派遣した形ではなかった。
そして日本代表に対する応援や期待は自明のものではなかったのだ。

第一次世界大戦を経て、一等国に近づいた日本だったが、英米を中心とした欧米へのコンプレックスは強くあった。
そこに加えてヴェルサイユ体制と呼ばれる、平和、軍縮を基調とする戦間期が訪れる。

軍備では英米に追いつけない。制限がなくても現実的には生産力も含めて追いつくのは難しかったと思うが、ともかく国力を示す場としてオリンピックは、戦間期にわかに注目を集めていく。
(外国では、選手が軍艦に乗って五輪開催地に向かうなど国力を示すこともあったという)

・敗因は「国民的支援がなかったこと」

1920年のアントワープ五輪ではテニスのダブルスの銀メダルのみで“惨敗“という結果に終わったと当時総括された。
大日本体育協会会長の嘉納治五郎はその"敗因"を「第一に国民的後援がなかったこと」とし、選手団の指導者からも同様の意見が出ていた。
国力を示す場として、いわば「五輪の総力戦体制」がここから組み立てられていく。

・五輪総力戦体制の開始

折しも大日本体育協会ではオリンピック参加にお金がかかることが問題となっていた。体育協会は国の支援を求め、
国が選手にお金を出す⇔選手が国のために頑張る
という図式が成り立った。
これは今にも繋がる図式で、メディアは選手達が国を背負う姿を報じ、国民は使命感をもって戦う姿に熱狂、時に失望という反応を示して行った。

日の丸を背負う選手達とそれを応援する日本国民は戦前に出来上がった。戦後、システマチックな国家によるアスリートの強化は少し弱まった時期もあった。
しかしここまで追っていくと現在と同じでは?と気づく人も多いだろう。

・政治家の言う夢や感動を与えるアスリートとは?

昨日5月25日の非常事態宣言にて、安倍総理はアスリートが夢や感動を与える存在と言及、そこに見え隠れするのは日本国民に夢や感動を与える代表としてのアスリートの姿だ。
2006年、第一次安倍内閣で発足したスポーツ振興に関する懇談会は、ある提言を策定した。
本書によるとその内容は、

07年8月に「『スポーツ立国』ニッポン一国家戦略としてのトップスポーツ」を策定した。「オリンピックで金メダルを!国民みんなの願いです」との文章から始まり、「国家として取り組む以外に、世界のトップスポーツの中で日本が成功する道はない」と結論する(以下略) p222

提言だったという。この懇談会の提言からスポーツ庁ができた。ナショナルトレーニングセンターはこの懇談会によるものではないが、08年に完成し、卓球の張本智和選手らエリートジュニアの育成にも一役買っている。
アスリートをオリンピックという戦地に送る総力戦は今も続いているのだ。

(了)

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