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『心はどこへ消えた?』パンチライン10選(前編)

パンチラインという言葉を、いかがわしい単語だとずっと勘違いしていた。

何を言い出すのかと思われるのも当然。ただ、恥ずかしいことに少なくとも大学生くらいまでは、パンチラ/インという謎の区切り方で解釈をしていた。

そしたらインしてるのかアウトなのか、いろんな意味でわからなくなってきて、ウェブの記事タイトルとかで見ても、避けるようにして生きてきた。

その後、決めセリフや名言のようなフレーズを意味すると知って、損した気分になった。もしかしたら人生を変えたかもしれないパンチ/ラインと出会えていたかもしれないのに。

今では不明を恥じるばかりだが、そんな自分がまだ知ろうとしていなかったものがある。それが心だ。

・心が行方不明です

すり減らしたくないから、意図的に心の問題を避けてきた。

いじめられても、他人に嫌われているのかと不安になっても、彼女いないの?とおちょくられても、怒鳴られても、蔑まれても。

避けてその存在を知ることがなければ、すり減ることもないだろうから。

でも、そうしているうちに心はどこかに消えて、行方不明になっていた。

ただ、意識をしていなかったから行方不明の心も、自分の身体のどこかにあるものだと信じ切っていた。パンチライン同様、カンチガイン、間違えた、「勘違い」していた。心はもう自分の元にはなかった。なおこの文章のパンチラインはここではない←。

・心はどこへ消えた?

臨床心理士の東畑開人さんが著された『心はどこへ消えた?』は、行方不明となった後、保護された心のエピソードが詰まっている。

だからこそ気づく、自分の心も行方不明なのでは?と。

心は満たされている。

そう胸を張れる人にこの本は必要ないかもしれない。

でも、心のどこかで、いや心がどこかで満たされていない感覚があるなら、手を取ってみても良いのかもしれない。心が無事発見された人たちの物語が読める。

せっかくなので、僕が勘違いしていた「パンチライン」を、個人的なセレクトだが、本書から挙げてみることにする。

・パンチライン①

"摩擦とは二人が一緒に居られるように、互いの形を研磨することでもある。"

一緒の時間を過ごす人に対しては欠点がどうしても見えてしまうものだ。家族、同じ寮の人間、一緒に旅をする友人...。みなさんも誰かと過ごした時に1度は感じたことがあるのではないだろうか。

それは一種の妥協とも言えるかもしれない。互いの主張が角張っているとしたら、一緒に住んで互いにこうして欲しいと言い合うのは、丸くなっていく共同作業とも言えるだろう。ただ、最初から100パーセント気が合って、100パーセント摩擦が起きないなんてことはない。それはあったとしても表面的でどちらかの内面は確実に摩耗しているはず。そんなことも考えさせられること文章だった。

・パンチライン②

"テレビの裏側にある孤独な心を予感するから、私たちはこんなにも芸能ニュースが好きなのではないか。"

これも個人的には、よくよく言葉を咀嚼していくと目からウロコな言葉だった。

どういうことか。

自分はアロマンティック、アセクシャルという恋愛も性愛もさほど興味がないセクシュアリティを自認している人間で、芸能ニュースにもあまり興味がない。もちろんAroAceの中に興味がない人もある人もいると思うが、Twitter上で自分が見たりしている感覚では、熱愛、結婚、離婚などの芸能ニュースは(推し以外なら)興味なしという方が多いように思う。

一方でヘテロセクシャルの方々は結構興味をもって、この手の話題を語りたがる。友達でもなんでもない、他人なのにね。

これってすべて恋愛みたいなものに結びつける価値観ゆえなのでは?、と勝手に仮説を立てていたが、これ以上に納得させられる仮説がこの”孤独な心”への関心。

それは自分が孤独でいたいというより、孤独に見える人たちへの「それで大丈夫か?」という心配にも似たお節介な興味だ。自分が安全圏にいる(と思っている)から向けられる"善意"。不倫で加熱する批判は、「被害者の孤独な心」をかばおうとしているからなのだと思う。友達でもなんでもない、他人なのにね(2回目)。

AroAceの方に向けられる「いい人いないのね」「結婚できたらいいね」も、このヘテロセクシャルによる孤独な心への関心の一例と位置づけられるのではないだろうか。

・パンチライン③

"不完全さを許せないと、私たちは人と一緒 に居られなくなってしまう。"

最初に挙げたパンチラインとも重なるところがあるが、人と一緒にいると自分のやりたいことに対して「不完全な状態」が必ず訪れるはずだ。たとえば旅行をしていたら、自分と別のタイミングでトイレに行った友達を待ったり、もしくは友達がどこかで忘れものをしたりするかもしれない。そういった不完全さを受け入れなければ、誰かと一緒にいれない、そしてその許せる度量がなければ、他人からも受け入れてもらえなくなるかもしれない。そんな「一緒にいる怖さ」も想像させられる。

・パンチライン④

"必要なのはカゲグチを言われたときの鉄壁の防御策である。いちいち傷つくから報復したくなってしまうのだ。そこで提案したいのが秘義「ネタミのせいなのね」。カゲグチを言われたときに、「ネタミのせいなのね」と思い込めると、ダメージが最小限になる。"

自分は嫌われているのではないか。そんな妄想とも言えるような考えに頭が支配されることがある。そんな時も、上記のように考えると少し気持ちが楽になる。

仮に本当に陰口を言っているような「あなたのことを嫌ってくる」相手のことであっても、ネタミという観点で考えて、その背景に考えを深めることができる。なんであんなことを言ったんだろう。それって〇〇の部分でネタミがあるからかな...とか、ね。

傷つけば、その分、元は返して欲しいと思うのが、「目には目を歯には歯を」と古代から唱えてきた人間の性(さが)だ。そこは止められないのかもしれない。ただ、苦しみを味わい、怒りそして恨む前に相手が惨めなんだという"上から目線"で、苦しみをやわらげられることができる。一瞬、その人より上に立って傷がよく見れば浅かったと思えるなら、その後訪れるはずだった深い苦しみからすれば安いものだ。

・パンチライン⑤

"怒りよりも悲しみを、復讐よりも孤独を語るようになった。焦点が自分の心に移ったのだ。それから私たちは、失われたものについて話し合い、彼にあった落ち度を話し合っていった。悪いものは外だけではなく、内にもある。"

まずはあの人が許せないという思いがあったとして、ではその復讐が終わったら...? 結局自分の心に関心は移る。外が悪いと批判するのはある意味簡単だ。なぜなら、自分のことを棚上げできるから。悪いと批判していた「外」がなくなった時、私たちは内面が真剣に問われることになる。

・パンチライン⑥

"ゴールデンウィークや夏休み明けに、職場や学校に行きたくなくなる。休み中に心の中の戦争が起きていると、そうなる。「あいつが怖い」と思い、「あいつがムカつく」と考え、それがグルグルと回っているうちに、心の中の「あいつ」はどんどん肥大化し、狂暴化し、残酷になっていく。すると、とてもじゃないが会えなくなってしまう。

案ずるより産むが易し、とはよく言ったもので、心配性の人はあらゆることを考えているから意外とその心配の上を行くような想定外の出来事は起きたりしない。

自分が不安に思っているあの人(上司や同僚、友人)との関係も、「不在」が、その人の怖さと、どうしたらよいかという不安を増長させる。だが、会ってみると意外とこんなもんかという感じ。それは最近、自分が恐れ慄いている上司に久々に会って思ったことで、割と実感をもってそう言える。

長くなってしまった。→後編へ続く。

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