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外国語を話している自分は別人格になっていた

自分は外国語で話していると、明るい人間になる。

この一文で「英語しゃべれる自慢ですか?」と思った人、ちょっと待ってほしい。むしろ逆なのだ。英語がうまく話せないから、明るくなるのだ。

単語も良く覚えていなく、言い回しもそこまでレパートリーを持っていない。そんな日本人が海外に行った時に助けとなるのが「愛想の良い英語」だ。

日本語ほど遠回りな言い回しも複雑な文章も会話で組み立てられないので、明るくなっていないとやっていられない。伝えたいという思いをストレートに表現しないと生きていけない。どうしても言葉は単純になるし、そして思考も短絡的になる。というか「短絡的になった」という話をこのnoteでは綴っていく。

この前、カンボジアに行ってきた。学生も自分の原付を運転する車社会。35度を超えるEveryday猛暑日の中、都市の構造も広くて移動はほぼAlways「Grab」(配車アプリ)。トゥクトゥクで、あるドライバーに出会った。

シェムリアップのアンコールワットから別の遺跡へと向かうべく、トゥクトゥクを呼んだ。トゥクトゥクとは後部座席付きの電動三輪車。

あいさつをしたドライバーはどこか日本人にも近い見た目のショートカット。の男性……男性か?

これまで5回以上、カンボジアの国内でトゥクトゥク、車のタクシー、リキシャー(バイクの三輪タクシー)に乗り込むと運転席には決まって男性がいた。東南アジアの別の国でもドライバーは決まって男性ばかり。「ばかり」と言い切ってみたが、(こちらが思う)見た目男性が「ばかり」だっただけだ。異国の地を見る視点はすでにこの時点で短絡的になっている。

ドライバーには男性しかいないのか。そんなことをつらつら考える。決まって思い浮かぶのは、日本との比較だ。日本は……どうだったか。電車、バス、タクシーのドライバーは女性がいる。いるにはいるけど、1割以下ほどではないだろうか。日本もそこまでは多いわけではないか。

運転は女の顔をしていない。『戦争は女の顔をしていない』みたいな言い回しで、運転席に女性がいないことになってきた固定観念と歴史を考える。考えていると、目的地に近づいていることを道沿いの標識で知る。

自分の眼の前にいるのは、男性か女性か判別がつかない。カンボジアに女性ドライバーがいた、というのは興味深いし、そうなのかなと思いつつ、気付かされる。

「日本だったら、ここまで女性か男性か気にしたか?」

日本でもパッと見で男性か女性か判断がつかない人がいる。いるのだが、それは決めつけたりするのも良くないなと思っていて、判断をあえてしない。しないようにしているはず、だった。だが、外国について知識がないゆえに、いや、無知なのをいいことに短絡的な発想になっていた。そして難しい言い回しができないからストレートに「男性か女性か」聞くしかないのかとも思ったりしていた。

日本だと人を傷つけないように回避していたセンシティブなジェンダー表現を、知らない土地では「知的好奇心」と「無知」を盾にその領域に踏み込もうとしていた。

トゥクトゥクが目的地に着く。結局、たどり着くまでに交わした言葉は「さあいきましょう」と「ありがとう」だけだった。

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