戦前昭和の「第0次交通戦争」。 路面電車、円タク、牛車の東京狂騒曲。
1932年の3月18日~6月8日の3ヶ月間、日本に滞在したフランス人の女性ジャーナリストの記したルポルタージュには以下のような記述がある。
東京に来て最初に強い印象を受けるのは、道路上のあらゆるものを駆り立てている速度という眩暈(めまい)だ。
(略)
東京で大通りを横切るというのは、スポーツの才能のいる快挙なのだ。
(アンドレ・ヴィオリス著 大橋尚泰訳『1932年の大日本帝国 あるフランス人記者の記録』草思社(2020))
戦前昭和をフランス人女性ルポライターの目を通して見ることができ発見の多い一冊。訳者の大橋さんの注釈も1932年の日本について知る手がかりが散りばめられており、勉強になる。
大通りを横切るスポーツって……。大げさすぎやしませんか?
ただ、こうも思い至る。
当時、東京にいた人はその漸次的な変化とその行き着いた異常性に気づかなかったのではないか――と。
その当時の資料をよく読んでいると勝手に自負する自分が気づかなかったように。
戦後の流行語にもなった「交通戦争」という言葉は有名だが、戦前には”第0次交通戦争”といえる状況があったのではないか。
そんな仮説を立てて、一体、1932年の東京の大通りで何が起きていたのか、少し気になったので、昭和ゼロ年代(昭和元年~10年)の都市の交通を自分なりにまとめて概観してみた。
●路面電車、円タクが競うように速度を上げる
冒頭で引用したヴィオリスの略とした部分において、大通りをスポーツにしている乗り物たちを以下のように紹介している。
路面電車は時速五十キロで走る。
タクシーはこの都市の需要を上回る台数が存在し、むこうみずな若い運転手があたかも国の名誉をかけて競争でもしているかのように、狂ったように危なっかしく運転する。(略)
当時の路上の切迫した様子が伝わってくる。
ヴィオリス氏が大通りでの様子を目撃した5年前の1927(昭和2)年には上野~浅草間の地下鉄が開通。しかし当時、電車の多くは路面電車だった。線路ではなく、今で言う車道を通る路面電車が都市を駆け巡っていた。
ただ、関東大震災を機に自動車利用が多くなる。
つまり軌道上を走る電車に比べ、自動車の機動性に注目が集まった。
乗合自動車と呼ばれる今で言うバスが急増し、合わせてタクシーも増加する。
当時は円タクと呼ばれる大阪発祥の1円均一のタクシーが流行。昭和2年の4233台から昭和6年には10180台と倍増していた(「東京市交通資料昭和10~13年度」より)。バスは路線が予め決められているバスに対し、タクシーはその点、自由である。だが、その自在性が当時、問題視されていくようになる。
●円タクの粗暴さ
危なっかしい運転は何もヴィオリスのみが指摘していたのではなく、同時代の日本人も指摘していた。
随筆家の高田保によると、円タクのタクシー運転手とこんなやりとりがあったという。
銀座尾張町から芝白金まで、五十銭でいかないか?
これは僕の経験であるが……乗るや否やその車は三十五哩、四十哩、いや四十五哩(七十二キロ)までも出し始めた。で僕は全く面食らってその運転手くんに呼びかけた。
「君! 一円だすから徐行してくれ給え!」
すると彼はたちまちにやりとして、二十五哩に落としながら、
「規定通りにいただけさえすりゃ、こっちだって規定通りに運転しますよ!」
(「円タク世相曲」『中央公論』1931年1月号)
当時の速度の規定は「自動車取締令施行細則」の二十五哩(40キロ)。それを超過するスピードを平気で出していたことは、この他いくつかの文献でも指摘されている。
その交通マナーの悪さ、遵法意識の低さはタクシー業者の構造に原因があったようだ。
昭和10(1935)年の東京市統計課の「タクシー業態調査報告」によると東京の営業者(タクシー会社)は8081、そのうち所有台数1台(今で言う個人タクシー)の会社は6153社にものぼる。
大阪は、と見てみると、なんと総計223社のうち所有台数1の会社は1社のみだった。
東京においては、客の奪い合いは必至で、永井荷風が記しているが、道路上から客を見定め、猛スピードで歩行者に寄ってくることもあったそうだ。
●鉄道を脅かす存在「自動車」
当時の利用者を奪い合う状況を井上篤太郎(『交通統制概論』春秋社 1936年1月刊)はこう説明する。
(れ注:円タクは)鉄道・軌道業に甚大なる打撃を与え、茲(ここ)に交通界は全く混乱に陥り宛(あたか)も戦国時代の惨禍を現出せしめる動因を作ったのである。
(現代仮名遣いに直して記述しています)
(れ注=このnoteの筆者れいすいきの注です)
この"戦国時代"に東京市は1932(昭和7)年、車籍制限に取り組み(後述、岡田論文)、1937(昭和12)年には日中戦争勃発により、ガソリン需給の調節のため、タクシーの流し営業の自粛が呼びかけられた(後述、齊藤書籍)。タクシーは規制の対象となり、後に淘汰されていくこととなる。
ここでひとつ触れておきたいのは、井上が「打撃」と断じているように、交通を見る視点が被害を受ける鉄道が主の存在と見る向きが多かったことだ。鉄道は明治新政府とともに発展し、政治を揺るがすほどの利権となっていた。そのためなのか、自動車の躍進は「混乱」を呼ぶ要因と位置づけられている。
鉄道を念頭に置いて、「自動車に対し、どう対処するか」という視点を持つこの傾向は管見の限り戦後の交通史研究まで続くことになる。
●自転車、牛車も大通りに登場
ヴィオリスの文章に戻ると大通りをスポーツたらしめているのは電車と自動車だけではなかった。
自転車も忘れてはならない。世界中のどの都市でも、自転車がこれほど数多く、これほどたけり狂っていることはない。(略)
ときとして、みずぼらしい牛車、このいまわしい無作法な過去の遺物が通ることもあり、これが一台通るだけで、おそるべき高潮のようだった交通が長時間ストップしてしまい、すぐさま口笛、怒号、さまざまな音程のかん高い響きのクラクションの嵐となる。(略)
自転車、そして牛車も路上の登場人物ならぬ、登場'乗物'となっていたのだ。
ここで当時の事故の統計を見ておこう。齊藤俊彦著『くるまたちの社会史』に紹介されている表で孫引きとなることをまず断っておきたい(すいません。元の表は警視庁交通係長の荒井退蔵「交通事故とその防止に突いて」『モーター』1931年6月号 によるもの)。
昭和4年(1929年)の統計となるが、自動車の交通事故が約14000件とこれも多いが、次いで自転車、そして牛車の事故も多かったことがわかる。そしてまだ人力車があったことも驚きだ。ともかく、路上の脅威が自動車だけではなかったのだ。
●路面電車利用の激減と円タクの躍進
実際交通機関の利用率(分担率)も前述の井上が指摘する通り、電車を脅かす存在となっている。またしても孫引きでも申し訳ないのだが、以下の表をご覧いただきたい。(表を掲載しているのは、岡田清「東京の交通―昭和戦前期を中心に―」(『成城大学経済研究』1995年1月刊)。
路面電車(市電)が関東大震災以降、激減し、タクシーが急伸しているのが読み取れる。
路面電車はシェアでいうと窮地に立っていた。前述のヴィオリス氏が見た「路面電車の50キロ」はタクシーに対抗したものだったのだろうか。そのスピードは焦りと競争の苛烈さを感じさせる。ちなみに、路面電車は昭和15(1940)年以降はシェアを取り戻しているが、これはタクシーの燃料ガソリンが制限されたことによる。
乗物同士の競争、その結果生まれた東京の大通りの喧騒。スポーツの才能があるアスリートでなければ横切れないとフランス人に嘆かれた、その大通りの雑踏は今の東京と比べると隔世の感がある。
資材や燃料不足により一時"停戦"となった交通競争は戦後、どうなったのか。戦後の交通との関連性を調べるのを今後の課題としたい。
現在の高知市内を通る路面電車。市民の足というより観光資源的な側面が強くなっているように感じる。
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