続・私は子どもが欲しくない

以前、こういう記事を書いた。

あれから約2年経ち、依然として私の気持ちは変わっていない。しかし、当時は身辺にネガティブな出来事が立て続いていて、感情的になっている部分が多かった。今、時間が経ったことでいくらか自分の気持ちを俯瞰できるようになり、改めてこのテーマについて考えを整理したいと思う。前回の記事と同じく、今回もあくまで「私の、私による、私自身へ向けた意見」であり、異なる立場・考えを否定するものでは一切ない。

※なお、私は妊娠・出産能力があるのか検査したことはない。そのためここでは子どもを「持つ」ことと「産む」ことは下記別の意味として扱っている。
・「持つ」=実子、養子に関わらず子を養育すること
・「産む」=出産のみを指し養育は含まない

「子どもが欲しくない」の意味

「子どもが欲しくない」というと、子どもが嫌いとか、子どもを持つこと自体に強い拒否感を持っている印象がある。実際にそういう方もいらっしゃると思うが、私の場合は少し異なる。 私は「持たないこと」に拘っているのではない。子を「持つ」/「持たない」という選択肢が目の前にあり、そこから後者を選んでいる、というイメージだ。どちらも同じだろうと言われれば、そうかもしれない。しかし、「子どもを持つ」ことに反発して持たないのと、両方の選択を考えた上で持たないのとは、私には大きな差だ。

 パートナーが出来れば次は子どものを持つのが当然の流れと考える人もいる。私の場合は、そうではなかった。例えるなら、子どもを持つことは私にとって「スケジュール」ではなく「オプション」なのである。

「持たない」後悔

 子どもを持つことに対して積極的ではない一方、子どもを「産んでみたい」気持ちは、多少ある。これは私が「女」という機能上出産が可能な身体であることが大きい。良い表現ではないが、言うなれば「せっかく子宮を持っているのに、使わないと勿体ないのでは」という貧乏性だ。もちろん、そんな気持ちで命を産むわけにはいかない。子どもを「産みたい」ではなく「産んでみたい」の時点で、これは「推しに会ってみたい」と同レベルの夢想である。
  
 今のところ、「子どもを持たない」という自分の選択に私は納得している。同時に、いつか後悔するのではという不安もある。
 この不安とはたぶんずっと付き合うことになるだろう。前はそのことに恐怖心があったが、最近はそうでもなくなってきた。
 世の中では「子どもを持たない」ことが、何か特別な選択のように捉えられている気がする。私自身も知らず知らずそのように思い込み、自分がとんでもない選択をしたと考えていた。しかし、子どもを持つことも持たないことも等しく人生の道筋の一つであり、そこに軽重はない。こう考えるようになってからは、後悔への恐れはだいぶ薄らいだ。そもそも、後悔することを怖がっても役には立たない。それを考えるなら、今やりたいことを思い切りやったほうが楽しい。

 今後、この考えが変化する可能性は十分にあるが、今現在の心境としてここに記しておく。 

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