読書記録&雑記(2021.7)

7.2 大久保真紀『児童養護施設の子どもたち』(高文研,2011)*

7.3 『施設で育った子どもたちの語り』編集委員会『施設で育った子どもたちの語り』(明石書店,2012)*

7.4 森田喜治『児童養護施設児の日常とこころ』(創元社,2013)*

7.5 岸政彦『ブルデュー ディスタンクシオン』(NHK出版,2020)*

7.8 角田光代『くまちゃん』(新潮社,2011)*

7.10 中村文則『銃』(河出書房新社,2012)*

7.18 浜本隆志『魔女とカルトのドイツ史』(講談社,2004)*

7.30 マーシャ・M・リネハン著/小野和哉監訳『弁証法的行動療法実践マニュアル』(金剛出版,2007)*✿


7.8 吉田大八『紙の月』*

7.12 江口カン『ザ・ファブル 殺さない殺し屋』*✿

絶望についての話をさせてください。

じとじとした夏の空気の中をより一層重苦しくする、どうしようもない話だけれど。

絶望の本質は、日々の軽い躓きの積み重ね、そしてその不可逆性にあるような気がします。

愛とはなにか、そんなものが存在するのか、というわりと救いようがない議論は見えないふりをして話を進めると、例えば人が愛されているのを見たとき。または、愛されるということ、愛があるということを、前提に行動している場面に遭遇したとき。その無意識の押し付け。

そのとき、「私たち」はああ、というどうしようもない軽い躓きを感じる。

私の口癖は、幸福とか不幸とか、そんなことを考えもしない人生を送りたかった、である。

人が傷つくのは、一次感情ではなく二次感情だ。

だから、そういった多数派を占める一般の当たり前、に触れ自分との差を感じたときではなく、それによって過去への悔恨やままならなさを感じたときが問題である。

その感知によって、「私たち」は傷つけられる。

それは今更謝られてどうにかなるものではなく、また今後別のなにかを与えられたからって、取り戻せるものではない。

もっと幼い、記憶すらないような時代、失われた生活、得られるはずだった、なにか。

それを適切に享受できなかったということ。

それは環境でも、機会でもなく、既に事実として決定づけられ、その上で自分という人格が形成されたということ。

大人にならざるを得なかったということ。

そういった、ある種のどうしようもないことたちが一斉に、それこそ滝のようになだれ込んで、しかしそれは静かに、驚くほど体の隅々まで染み込んで、痣のようにいつまでも消えない。低気圧が訪れるたびに、ずきずきとその傷を主張して。

その繰り返し。生きている限り続くであろう、その繰り返し。気が遠くなりそうな。

それが絶望の本質であると、私は考えています。

だからと言って、対処法があるわけでもない。

根治はないからと、それこそ対症療法的な行動を取って、その傷に敢えて触れて、それが万人にとって、「私たち」すべてにとって、善いものであるかはわからないのです。

だから、私が「私たち」に、そして自分に対して言えることはあまりなくて。

生きていくためのあれこれをしましょう。

生きていくための、あれこれをしましょう。

それが文学であろうと、芸術であろうと、時には労働であり、治療であり、宗教であり。

なんでも構わない。

生きていることそれ自体が幸福だとも思わない。

でも生を手放すことは、時に軽く感じるけれど、重くなくてはいけないものなので。

自分という多面性を帯びた複数の自己を、質量を持った存在としてどうにか繋ぎ止めておくために。

生きるためのあれこれをしましょう。

今日も寝苦しい夜だね。

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