【思い出】俳句の思い出

私が高校生だった頃の話

高校3年生の時の担任は国語の先生だった。
その先生が知人から「高校生のありのままの感性で詠まれた俳句を集めたい」と頼まれたということで、私達は俳句を作ってくるように言われた。

「ありのままの感性」が大切なので、変でも手直しはしないし、やり直しもない、ということだった。

しかし、突然、俳句を詠めと言われてもなかなか難しい。こういうのは普段からそういう視点で日常を眺めていないと出てこないのではないかと思う。

さて、その頃、私はいつも学校への行き帰りに、決まった時間の電車に乗っていた。ちょうど電車が川を越える時に朝日と夕日がみえるのだが、同じ時間でも季節によって日の高さが異なっており、時の流れを感じることができて、おもしろいなぁと思っていた。

しかし、電車内の人々は寝ていたり、携帯を見ていたりして、外の風景は全く気にしていないのである。

私は「こんな季節の機微を感じることができる自分の感性は素晴らしい!」と思い、このことを俳句にすることにした。

内容としては、「車窓から眺める、登る太陽、落ちる太陽どちらも美しい。しかし、美しい瞬間は一瞬のことで、それに気がつかない人がなんと多いことか、もったいない」ということを詠みたかった。

この内容を五七五に圧縮していくのが腕の見せ所である。例えば、日が落ちる早さの表現を「つるべ落とし」と言ってみたり、私の語彙力を見せつけるのである。

そして、完成したのが、

夕焼けよ
つるべ落としや
気がつかず

という句だった。
(もしかしたら「気がつかず」の部分は「人知れず」だったかもしれない。結構悩んだ。)

少しわかりずらいかな?とは思った。
なんだか「気がつかないうちに、かかと落としをくらってしまった」ことを詠んだ感じすらする。
それから季語というものが無さそうだな、とも思った。

しかし、そんなのは些細なことであり、関係ないだろうと気を取り直した。何故なら「ありのまま」が大事だからだ。

とにかく当時の私は「つるべ落とし」というワードを使いたくて仕方なかった。

こうして、この句に多少の不安はあったが、特に誰かに相談するわけでもなく、再考もせず、そのまま先生に提出した。
繰り返すが、「ありのまま」が大事なのだ。

後日、私は先生から呼び出されることになる。
要件は、簡潔に言うと「俳句の意味がわからないので、やり直せ」ということだった。

私は学業にも特別問題はなかったし、部活も真面目に取り組んでおり、どちらかといえば優等生の部類だった。少なくとも自分ではそう思っていた。

それだけに、悔しかったし、恥ずかしかった。
先生は少し言いにくそうに、そして、やばい奴に慎重に要件を伝えるように、やり直しを命じたのだ。

もはや、私は句の意味を伝える余裕はなく、ただ「わかりました」とだけ答えた。

その後、「受験勉強は大変だ」みたいな内容の句をテキトーに作って提出した。こっちの句はテキトーに作ったので、よく覚えていない。

ちなみに、私は内部推薦で大学へ進学しており、受験勉強はしていないことを一応お伝えしておきたい。

俳句の思い出おわり


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