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わたしの育った東京という街

わたしにとって東京は生まれ故郷であり、いつも刺激をくれる場所だ。
いつも東京帰省をするときは、限られた日数の中で、いま会いたい人に会うようにしている。今回ははからずもがな、自分の縁の地を巡るような帰省となった。

生まれ育った場所 練馬

わたしがこの世界に生まれたのは練馬区。母と父が出会ってから一緒に住んだ街だ。どちらかの実家があるでもなく、家族ができても住み良い街を選んだのだと思う。

生まれた家は徒歩3分で光が丘公園という、都内でもかなり広い、春にはお花見で各地から人が押し寄せるような公園があったり、幼稚園の横には大きな畑があって毎年芋掘りをしたりするような幼少期だった。このように練馬区は東京都23区内であるにもかかわらず、公園や畑に囲まれたのどかな街で、あの時から自然が好きになったのだと思う。

しかし練馬区はお世辞にも頭のいい地区ではなく、偏差値の低い中学校や高校が多かった。勉強がすきだったわたしは周りの勉強しない子たちを理解できず、クラスでは優等生として扱われながら、ヒエラルキー中間層のコミュニティに属し、なにごともないように毎日を過ごしていた。

でも心の中でははやくこの街から出たいと思っていた。
もっと自分に合う世界が広がっていると信じて。

その時同じように幼いながらに、おのおの脱!練馬区を企てていた2人とは、大学卒業後あたりから、ひょんなきっかけで連絡をとるようになり、帰省の度に飲み語りあっている。

今回は小学校の頃よく行っていた豊島園の跡地に、ハリーポッターの施設ができたということでひざびさに訪れた。成人式もした豊島園には、練馬区を出たいとずっと思っていたわたしでも、少しばかり思い入れがあり、面影が残っていた旧豊島園へ向かう道を通ったときは、なんだかあの頃の気持ちがフラッシュバックしたような気がした。

まだ1人では何も選べなくて無力だった自分。
本当の自分がわからず人に合わせていた自分。

自分で初めて選んだ道 新宿

練馬区から出たい一心で、偏差値の高い学校にゆけば選択肢が増えて、
自分に合った環境や、自分のやりたいことが見つかると信じていた。

内申点だけはよかったので推薦をもらい、都立でもtop5にはいる進学校、都立新宿高校へ入学。文化祭を見に行ったときにみたチアリーディングと、家から1本で行けるという安易な理由で選んだわけだが、今思えば、自分で自分の道を選択した初めての経験だったのかもしれない。

この時からわたしのコミュニティを選ぶ直感力は発揮されていたのだろう。

小さい頃からクラシックバレエをしており、球技音痴のわたしは、チアリーディングを見た時、わたしができる部活これだ!となったのだった。しかもチアリーディングなら経験者がほぼいないのでみんなのスタート地点が一緒なのも自信がもてた。

ここで初めてみんなでなにかに向かってがんばるという体験をする。日本大会を目指して、朝練、早弁して昼練、放課後練、おわったらタンブリング教室へ、そんな毎日だった。部活の先輩同期とは、わたしが心を開ききれなかったこともあり、さほど仲良くなれたわけではないが、チアは究極のチームスポーツ。演技はお互いの命を預け合うようなもの、大会の演技がおわったときはみんなで泣いた。

チア部はなにかと目立つ子が多く所属していたこともあり、今回高校の同窓会にいったとき、チア部といえば思い出してもらえたりしてなんだかよかったなと思ったり。

なにより新宿高校を選んでよかったのは、最後の3年生ではじめて自分の心を開ける友達に巡り会えたことだ。名前の玲の漢字が同じなの!と始業式に声をかけてくれてから、毎日一緒にいたチア部には開けなかったわたしの心をその子は、数ヶ月で開いてくれた。彼女はだれにでもフラットで、どんな人とでも真正面から向きあう正義感に溢れた子で、たぶん自分にとっては初めて自分と向き合ってくれた子だったのだと思う。その子はいまでも一番大切な友達の1人であり、定期的に必ず会って近況報告をしている。お互いの恋愛遍歴は、もはや自分よりお互いのことの方がおぼえてたりしてわらってしまうことがあるくらい。

ここで自分で選んだ道は可能性が溢れていること、やりたいことは見つからないけど、選択肢が増えることを確信したのかもしれない。

人生の転機 早稲田

人生の転機はいつですかと訊かれたら私は迷わず大学1年生ですと答える。
高校でも中学と変わらず内申点のよかったわたしは指定校推薦をもらい、一般入試では到底届かなかった早稲田大学に入学。
これがわたしの人生を大きく変える。

早稲田大学の入学式の日の帰り道、新歓のチラシ配りの在学生で溢れた校内は歩くのもままならない。手を前に差し出したら最後、100枚ほどのチラシが目の前に重なる。まじめだったわたしはこのチラシを家に帰って1枚1枚みて、そんな中1枚のチラシに目を奪われた。今まで見たことないくらい綺麗な海と、心からの笑顔で楽しそうなサークルの人たちの写真。(あとからその写真はセブ島で、サークルの合宿ではなくプライベートの写真だったと知る笑)

これが運命的な出会いとなることはこのときはまだ知らない。

そう、心奪われたのはダイビングサークル。
ダイビングに興味はなかったがこの場所にこの人たちと行きたい!という直感で即決。しかしながら、ダイビングサークルは安全面の観点から学年8人の少人数制で、毎年抽選(実際は先輩たちによる選考)で選ばれる。当時すでにアルバイトをしていたわたしは新歓にもほぼ行けず、アピールを何もできないまま申し込み。毎年倍率は3-4倍なのだが、たまたまその学年の女子は申込が定員ぴったしの4人でそのまま入部に成功。

最初は、高校と正反対の先輩も後輩も上下関係のないフラットな関係性とか、THE大学生の飲み会についていくことができず、この子大丈夫だろうかと心配され、お姫様のような扱いを受けていた。ぜんぜん自分はそんな扱いを受けたいわけじゃないのに、また自分を出せずにいた。

しかし同期の男の子がそれを察したのか、雑でいじりの扱いをしてくれたことで自分らしさをだせるようになっていったのと、ある日OBの先輩にお酒を飲ませられたら、めちゃ飲める体質やんということがわかってから開成。
天使と呼ばれていたわたしは酒豪のいじられキャラへと変貌していった。そこからは徐々に心を開いていき、1年生の冬にはもうサークルの人たちは気を遣わない家族のような存在になっていた。

このサークルのいいところは、個性を尊重する文化が浸透していること。それぞれの全く異なる性格をお互い受け入れ、その子が輝ける環境が自然にできていく。どんな自分でも受け入れてもらえる、自分という存在がみんなに肯定される感覚、いい意味でみんな適当で距離感のちょうどいい人たちが集まっているのだと思う。

しかもダイビングという性質上、命を預け合うスポーツなのでそこで築かれる信頼関係、合宿は強制参加合宿となっているので、春と夏には3週間ほど衣食住をずっと共にし、みんなありのままの自分を出さないとやってられないという状況が生まれるのも相まっているのだろう。

わたしにとってこんなコミュニティは初めてだった。
自分はありのまますきなように生きていいんだということに気づく。
ここからわたしの自由人生活がはじまったのだ。

今回は卒業振りに早稲田祭に訪れた。
実はダイビングサークルの他に、早稲田祭運営スタッフという学園祭の実行委員のサークルにも所属していた。どうしてもダイビングがメインで、そのお金を稼ぐために日々アルバイターとして生活していたので、フルコミットできていたわけではないのだが、綿密なタイムスケジュールを組んで会場の準備をしたり、当日あのエンジ色のはっぴを着て走り回っていた記憶が蘇った。

そういえば、高校の時も文化祭の実行委員だったし、小さい頃からお祭りやイベントごとはだいすきで、ずっとイベントの企画、運営みたいのがすきだったんだなと気づく。自分が目立つというより、誰かの表現を応援する、そういうことが好きなのかもしれない。

場所が思い出させてくれること

記憶は嗅覚に結びついているとよくいう。
場所もこれに付随しているのかもしれない。

その土地の匂いとか、降り立った時に感じる空気感とか、
そういう視覚だけではない五感が、忘れかけていた記憶をぐっと甦らせてくれる感覚。

いつもは懐かしい人たちに会って話して記憶を思い出すことが多いのだけれど、今回はその土地を訪れてたことで思い出すことの多い2週間だった。

思い出とかはだれかの記憶や写真にきっと残っているけれど、
自分がそのとき感じていた気持ちとか、葛藤していた心の動きとか、そういうものはこういうきっかけで不意に思い出されたりするんだろうな。
その感覚がとても心地よかった。

ちょうど人生の次のステップに進もうとしている今、
引き寄せられるように訪れた場所が、次の道も間違ってないよ、そう教えてくれているようだ。

やっぱり私は30年近く東京という街に暮らしてきて、
東京が自分の居場所であり、刺激をくれる場所であると再認識できた。

年明けから始まる東京生活でも、こんな風に訪れたらふっと心が温かくなるような、そんな場所を作り続けていきたい。

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