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「快感インストール」予告が「不快感インストール」になってしまったのはどうしてなのか−ファンの目線から

 ほとんどの人は知らないかもしれないが(知らないと願っている)、dTVでこれから始まる新ドラマ「快感インストール」の宣伝が行われている。たった1分半の予告と、公式HPに載せられたあらすじが、Twitter上で物議を醸しているのだ。今回はこの事件について、ファンとしての目線と、仮にも多少はジェンダーを勉強している人間の目線から、少しだけ考察を加えていきたいと思う。(あらすじについて:性犯罪にあったことのある人はフラッシュバックの危険性があるので閲覧には注意してください。)(なお、この考察はあくまでも、全世界に流された「快感インストール」予告をめぐってのものである。つまりこの考察が指している「快感インストール」の範囲はあらすじと予告にとどまる。)

「快感インストール」の問題点

 快感インストールのあらすじは以下の通りである。

 女性経験のない大学生・タカがある日突然手に入れた能力は、女性の胸に触れるとその女性が性行為している最中の映像を見れるようになるというものであった。タカは友人とともに大学の女性たちの胸を触ろうと画策していく、というものだ。詳しいストーリーが知りたい方は、以下の公式サイトから見てみて欲しい。

 一応断っておくが、最初も言った通り筆者はキスマイの大ファンである。特に主演の二階堂高嗣は私の二人いる推しの中の一人である(もう一人は横尾渉さん。性格が良くはなさそうなところがたまらないです)。イチオシは横尾さんなのだが、ニカの素直さ・おバカ・ハスキーなラップのお得な3点セットで完全掌握されたご新規さまの一人である。当然ファンクラブも入っているし、dTVも加入していた。配信ライブも観たし…とファンのマウントはここまでにしておこう。

 まずは簡潔に、何が良くないのか?という話を進めていこう。

何でこんなに批判されてるの?−よくある批判

 よくある反論から丁寧にほどいていこう。まず、結構な数見られた意見として(私調べ)、「ただのエロじゃないって!」というのが挙げられる。つまり、「エロだから批判しているのではないか」という誤解だ。甚だしい。そんなことで批判しない。推しのベッドシーン、どんとこいだ(私だけかも)。ラブシーンに問題があるのではなく、主人公が「合意なく胸を触ることを画策する」ことにある。合意なく胸を触ることは痴漢と同じであり、「強制わいせつ罪」という罪にあたる可能性がある。犯罪を計画する様子を「ほのぼの友情シーン」と呼ぶのは倫理的に問題がある、とか以前に意味がわからない。窃盗の計画をする様子をほのぼのBGMかけて流すくらいの違和感である。

 続いて、「胸を触るくらいで大袈裟だな〜」と言っている人たちが散見されるが、先ほども述べた通り、許可なく、故意に人の性的な部分に触れることは、強制わいせつ罪に当たる可能性がある。もし裁判で「当たらない」と言われたとしても、迷惑防止条例という条例には引っかかる。条例とは、それぞれの自治体の法律みたいなものである。条例だから大丈夫!ということはないと思うのだが、気のせいなのだろうか。立派な性犯罪だと思うが、推しが嬉々として犯罪行為をしているのが嬉しいのか

 ここまできてようやく、次の厄介な言説に触れることができる。「現実と創作の区別もつかないんですか?」というものだ。区別はみんなついているだろう。ワンピースを読んで本当に海賊王になるために海に出て行った人を私は見たことがない。それではなぜ、「表象が性犯罪を助長する」といわれてしまうのだろうか。そこには、心理学や社会学の話が絡み合ってきて難しいのだが、私の理解している範囲で説明しよう。

 まず、性犯罪というのは、現代の日本の価値観では「犯罪とおふざけの間」という曖昧な位置にある。「覗き」「スカートめくり」「痴漢」、時には強姦でさえ「男性(一応女性も)の健全な性欲」という言葉のもとになぜか問題でないことにされてしまうことも多い。そんな、基盤の柔らかい価値観の中で、「胸を触る」という痴漢行為が「娯楽」として描かれた映像が当たり前のように拡散されたらどうなるのか。「痴漢は娯楽」という価値観が再生産され、植え付けられた価値観が色々な悪影響を及ぼす。加害者は「娯楽だからな…」と軽い気持ちで触り、被害者は「娯楽なのに何か言ったら水を差してしまうから」と我慢する。フィクションは時間をかけて現実に浸透していくのだ。

 また、人間は「社会で許されている」と思うとやってしまう傾向がある。それが悪いことだとわかっていてもだ。有名な社会心理学の実験で、こんなものがある:「こんなにたくさんポイ捨てする人がいます。汚くしないでください。」という公園の汚い様子の写真付きポスターを貼った時の方が、「ポイ捨て禁止」とシンプルなポスターを貼った時よりもポイ捨ての数が多かったというのだ。「あ、こんなにみんながやってるなら自分も…」「こんなに汚いなら自分一人がポイ捨てしたところで変わらないな…」と思うらしい。普遍的な価値がずれてしまうのだ。

 これが痴漢で起きたら危なすぎる。「みんなやってるし…」ということになったら、犯罪大国になってしまう。しかもこの場合においても、被害者は「みんなやってること=みんなやられてることだから」と我慢してしまう。せっかくここまで、色々な女性の権利論者の人たちが「被害を受けたら声をあげていい」ということを宣伝してきたのが水の泡になってしまう。

 もう一つ、「ラッキースケベ」という語の定義の残虐性にも触れてみよう。「ラッキースケベ」というのは、女性の身体の性的とされている部分に偶然触れてしまったり、偶然外的要因(風など)によって普段見えていない性的な部分が露出してしまったことについて、見た側・触った側が喜ぶ、という現象のことである。これが男性の普遍的な性欲である、と規定されているのは不思議で、本来、不本意にも触られたり見られたりした女性に対してかけるべき言葉は「ラッキー!」ではなく、大丈夫?である。

 例えばだが、リョナ(血や怪我しているものに興奮する性癖のこと)が社会通念状性欲として最も健全だとされている社会において、偶然転んで膝を擦りむいた人に対して「偶然の傷口の露出が一番エロいんですよね〜」という反応をするのが最も普通だとしたら、おかしいと思わないだろうか?「大丈夫ですか?」と聞いて持っている絆創膏を差し出さないだろうか。あるいは見て見ぬふりをするかもしれない。だってそんな恥ずかしいところ見られたくないだろうし。

 「ラッキースケベ」(偶然の「スケベ」な状態に喜ぶこと)は触られる女性の感情(触られて怖い・痛い)や意志(不本意に体を触られたくない)を一切無視した言葉であり、それが社会通念として広がってしまう恐れに対して、今回のような運動が起こっているのである。

もう一つのよくない点−ホモソーシャルについて

 みなさんは「ホモソーシャル」という言葉を知っているだろうか。wikipwdiaには「恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語」という風に載っているが、ここからは社会学の中でもジェンダーの分野におけるホモソーシャルの用法を解説していきたい。

 イヴ・K・セジウィック『男同士の絆』などにも明らかだが、ホモソーシャルは「男性同士の内輪ノリ」を表すことが多い。その内輪ノリの中でも「女性を獲得物として話すこと」「『おかま』を排除しようとすること」「お互いを侮辱しあうこと」が大きな特徴である。

 例えば、こんな会話を想定してみてほしい。

「お前、足短くね?」

「童貞のくせに生意気だなおいwww」

「うるせーなー、女とか興味ないだけだわwww」

「は?お前おかまってこと?やだ、掘られちゃう♡」

「な訳ねーだろ!おかまはまじで無理www」

典型的な「男子ノリ」の例を文字起こししてみたものである。

 ここで確認されている男性同士の絆は以下の3つである:「俺とお前はけなしあえるほど仲が良い」という絆・「俺もお前も女性を獲得することによって初めて男として認められる」という感覚の上に立つ絆(童貞いじり)・「男性である自分が性的対象として客体化されないことの確認の上に立つ絆(おかまいじりとその否定)。「おかま」というのは何とも差別的な語で、女性的な振る舞いをしたり性自認が女性であることそれすなわち男性を性愛の対象とする、ということではないのだが、性自認と性的指向を完全に混同して遠ざけるやり方である。

 ホモソーシャルと呼ばれるタイプの男性同士の絆は、女性やゲイ・トランスの人たちを踏み台にし、自分たちが「それらではない」ことを確認することで初めて成り立つものなのである。

 「快感インストール」の件におけるホモソーシャルについて、賢い読者のみなさまならもうおわかりであろう。この作品が女性の胸を触る、という行為を通して男性同士の絆が深まる作品だ、ということは、監督の「これはブロマンス(男性同士の友情物語のこと)です」というTwitterでの一言からも確認できる。女性を獲得する→一人前→男性同士の絆、からはやや歪むが、胸を触る→快感を与える?ということで女性を獲得することを表すのであれば、この構図にかなり近づくと思われる。

 少なくとも、女性の意思を無視し、一人ひとりの女性の存在を「おっぱい」に集約するようなセリフを語る作品において、それぞれの触られる女性たちは、最後に男性登場人物二人が到達する「ブロマンス」への踏み台なのである。

 最後に、女性でも男性でも関係なく「じゃあBE LOVE(この企画の一つ前に行われた、男性メンバー同士の恋愛の物語)についてはどうなのか」という意見にも簡単に触れておきたい。「BLは男性性の搾取ではないか」というツイートが散見されるが、とても不思議である。男性が男性によって恋愛の対象としてみられることが性的搾取なのであれば、男性が女性によって恋愛の対象としてみられることも、女性が男性によって恋愛の対象としてみられることも、この世の男女の恋愛を表現するあらゆる創作物も全て、性的搾取なのだろうか?「恋愛関係」と「性的関係」はグラデーションにされがちながらも別の存在である。そのことは、「恋愛対象はいても性的対象はいない」Aセクシャルのような人々の存在によって証明されている(もちろん恋愛感情と性的な感情が限りなくくっつきあっている人もたくさんいることはわかっている)。つまり「恋愛のみを描く創作」は性的搾取になりにくいということにはならないだろうか。「逃げるは恥だが役に立つ」と何が違うのだろうか(クオリティが違うとかじゃなくね)。どちらも恋愛し、キスをしている。お互いの間に合意があり、その合意をお互いに理解している。知らない女性の胸を合意なく触ることを画策することとは本質的に比べられないのである。

いちファンとしての想い(小声)

 最後に、いちキスマイファンとしての小声でのぼやきを聞いてほしい。今、私たちは完全に板挟み状態だ。推しから敵だと思われるかもしれない、ファンとしてみてもらえなくなるかもしれない、そんなリスクを犯しながらも推しはこんなファンからの言葉に耳を傾けないかもしれない、という気持ちに苛まれ、そしてキスマイのファンではない人たちからの「やっぱりジャニーズはみんな性犯罪者予備軍」「こういう時ジャニヲタも盲目的にならずに動けよな」「キスマイってみんなミソジニーなんだね…○○ならありえないのに」みたいな言葉たちに日々胸を痛めている。

 推しの人格を否定してほしいわけじゃない。推しのことを嫌いになってほしいわけじゃない。ましてキスマイを「ミソジニー集団」だと思われたくて始めたことじゃない。ただ、推しにこんな旧時代的なダサいことをされたら、推しのことを胸を張って「好きです」と世界中に叫べなくなるから言っているだけだ。推しはいいやつだ。ニカも北やんもめちゃくちゃいいやつだ。だから「収入断たれろ」とか言わないでほしい。本当はいいところもたくさん知った上で彼らの悪いところを指摘してほしいけれど、それは無理なのは重々承知である。せめて「罪を憎んで人を憎まず」であってほしい。それに確かに彼らは悪いけれど、本当は他の関わったスタッフ全ての落ち度でもある。35歳も30歳も大人だ。立派な大人だ。でも大人も間違えるから何度も色々な人たちのチェックの目が入り、会議が繰り返され、間違いを少なくしようと努めるのではないだろうか。こんな大きな大きな見落としがあったのは、間違いなく彼ら2人の責任でもあり、全てのスタッフの責任でもあるだろう

 私はアイドルに性的なことをして欲しくないわけでも、恋愛をして欲しくないわけでもない。そんなことはどうでもいい。いつかフルヌードの仕事がしたいなら好きにすればいいし、18禁芸術映画に出たらすごいねぇと思うし、熱愛報道が出たら「幸せそうでよかったな」と思う、推しの幸せを願うだけの人間だ。この作品が公共の目に触れたら、推しが幸せになれなくなると思う、からこそ、私は声をあげたのだ。

 幸せになれるのなら、推しが別にジェンダーのことなんかわかってなくてもいい。本当はわかっていた方が作品を作る上で役に立つと思うけれど、最悪「このご時世、これじゃコンプラダメかな」みたいな認識でもいい。素敵な作品さえ私たちの元に届けてくれるなら。いや、君たちが輝いているだけでもう素敵なんだけれども。でも人を傷つける作品だけは作って欲しくなかったのだ。ファンの中に「ある日突然胸を掴まれた」経験がフラッシュバックして怯え、泣き、怒り、キスマイを見られなくなった人たちもいるのだ。

 最後の最後、様々な推しを持つ世界中の人たちへ。

 私たちは、推しがおかしいと思ったら怒っていいそれを推しに伝えていい盲目的に全肯定しなくていい。それが責任を持って推すということだ。もちろん推すのをやめてもいい。なぜなら推すことは自由だからだ。自由とは孤独で、今日も私のSNS上の戦いは口角炎ができるほど辛いけれど、私は愛する推しを想って(推しの「ために」ではなく)、孤独な戦いを歩んでいく。

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都内大学生。愛について考えると泣いてしまいます。