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幸せになる覚悟。




こんにちは、れいなです。
note更新してなかった。やっぱり日常生活を送っていて書きたいことで溢れるし、書かないと自分の感覚をちゃんと自分の中に落とし込むことができなくなってきてしまうからアウトプットって大切だなと感じます。
ちなみに、胃腸炎の心配メッセージを沢山の方にいただきました。今は完治してめちゃくちゃ元気です、ありがとうございます。



最近、今までずっと自分を縛っていた負の感情から生まれる無理やりの自己管理から解放されて、自由に生きてました。

でも自分に対してなんの制限もなく自由に生きていると、オンとオフの境目が無くなるから生活にメリハリがなくなってくる。今をただ生きていることに幸せだと感じることには変わりないけど、

自分はもっと高いレベルの幸福を感じれる可能性を心のどこかで感じながらその感情に向き合ってあげないのは、『逃げ』でしかない気がした。

何者かになりたいという不安や、他者比較から生まれる劣等感からではなく、純粋なポジティブな感情の中で自分の向き合った結果、

やっぱり自己をもっと整えて高めていきたいと感じてる。

これは誰かの目を気にした感情ではなくて自分の心の底から浮かんできている感情であるから、やっぱり私は規律を持って自己を律して清く美しく自分を高め続けながら生きていくことが合っているんだと思う。

ありのままの自分を受け入れて完全なる自由の元で生活し始めた数ヶ月前、このポジティブの中での向上心が生まれなかったらそれはまあ仕方ないと思ってた。

けど、そうじゃなかったから、これから少しずつ、自然な流れの中で自分の生活の中に『規律』を入れていこうと思う。



ということでここからが本題。

最近自分にブレーキを入れている気がしていた。アクセルを踏み出すと止まらないで壊れていくことが何度もあったことでブレーキをはずす恐怖を感じていたんだと思う。

だからブレーキをしてスピードが遅くなった自分の中に、ささやかな美しい幸せを見出していた。

けどさっきも書いたように、まだ、幸せという言葉の奥に何かが隠されている気がして、それに気づければ何かもっと向こう側にある深い幸せが見つけられそうな感覚だった。

だから少しずつ、幸せの奥に隠された何かを見ようと頭で考えてた。



幸せってなんだろうっていろいろ考えた時に、それはこれから死ぬまでずっと、良いことしかなくて何事も上手くいって、笑っていることじゃないと思った。

幸せという名の中にも、喜怒哀楽がある。

例えば好きなことを出来てる自分がいたとする。デザインが大好きでデザイナーを志してやっとの思いでデザイナーになれた。好きなことを仕事に、ずっとデザインに触れられて最高に幸せ。なはず。
でも、時には上手くいかなくて上司にボロクソに言われることもあるし、アイデアが浮かばなくて自分を責めて苦しむ時もある。仲間と喧嘩して苦い思いをすることもある。

でもそれは不幸でも人生が最悪な訳でもなくて、幸せというパズルのピースの一つで、そんなつらくて苦い経験もひっくるめて『幸せ』という言葉は出来上がるんだと思う。


恋人や家族との喧嘩や上手くいかないことだって、それはその人の幸せという中の1つの側面に過ぎない。

会社をやっていく時も、地道な努力や無意味に思える積み重ね、失敗だって「やりたい事ができている幸せな自分」の一部のシーンに過ぎない。


それなのに、辛いからやめる、上手くいかないから別れる、失敗したから諦めるって行動をしてしまうのは、

今自分が苦しんでいる事•もの•人に対して幸せだと感じた過去の自分の美しい感情を侮辱してしまっているのではないか。


自分は幸せであることをしっかりと受け入れた上で、今から目の前に起こることがたとえ苦痛だとしても、死ぬほど辛いけど、辛く苦しんでるという幸せの一部を楽しんでる自分をニヤリと笑ってしまうような生き方が出来ていければいいなぁ。


幸せになるために苦しむ必要なんてない。今すでに私たちは幸せで、苦しいという感情はその幸せの一部を体験しているだけなのだから。




楽しさだけが幸せじゃなくて、これからくる辛さ、苦しさ、ウザさ、めんどくささ、イライラ、不安、恐怖、全部が幸せから来るものだと気づくことができたのなら、

あとは自分の周りにいる大切な人達と全力で前に進んでいけばいいだけだぜ。

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