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人生に於いて

 もしオーケーならキャミソールのドレスを着て今夜あの店に来てくれと言われたので、わたしは真っ赤なチューリップのようなドレスを身に纏い夜中にホテルを飛び出した。
 やわらかな花びらのようなスカートが、急足で歩く脛にゆらゆらと触れて、わたしの心は昂った。
 辿り着いた狭いそのバーには人がひしめき合っていた。わたしは人をかき分けながら、彼が待っているであろう二階の角の席に急いだ。肩先に触れる人波がそのままわたしたち二人の間にある障害のように思えた。
 二階の窓際の席に彼はいなかった。わたしは少し胸をなで下ろすと、アンティーク調の木の椅子に座って火照った脚を組んだ。
 運ばれてきた繊細なグラスからお酒をほんの少し飲み、彼が来るのを待っていた。胸がどきどきと脈打ち、ときめく心を止められなかった。彼が来る。いつ来るだろう。どの瞬間に彼がここへ来ても、完璧な自分の姿をその目に映したいが為に、わたしは一瞬たりとも気が抜けなかった。店の照明は黄金色で、そこにいる人たちの横顔をきらきらと照らしていた。まるでシャンパンのような店内にはピアノの演奏曲と人々が発する声が混じり合い、心地よい雑音としてわたしの耳に響いた。わたしは背筋を伸ばしてグラスを傾けながら、小さな木枠で縁取られた窓の外を見た。窓ガラスに反射する自分の顔をぼうっと眺めていた。良い夜だと思った。
 次の瞬間だった。大きく地面が揺れた。フローリングの床は波打ち、あちこちから人々の悲鳴が聞こえた。大きな地震が起こった。
 わたしは机に掴まり、あたふたと周りを見渡した。世界が揺れて、壊れていくところだった。わたしは目をぎゅと瞑り、揺れの収まるのを待った。ひとしきり大きな揺れが過ぎ去ると、わたしは倒れている人や物なんかを乗り越えて狭い階段を降りていった。
 飛び出した壁の木片に引っかかってドレスが破れた。ついさっきまでそこで輝いていた物々は跡形もなく崩れ去り、無惨な姿になっていた。わたしの頭は混乱し、目に映るどれもが嘘みたいに思えた。
 一階ではグラスがそこかしこで割れて床に散らばっていた。逃げ惑う人々。店は崩壊して、二階も一階もめちゃくちゃだった。わたしはなんとか逃がれ出た路上に立ちつくし、つい先程まで自分が座っていた窓の方を見た。小さな窓枠は縁にぶら下がり、ぽっかりと空虚にひしゃげた空間が夜に浮いていた。
 街の明かりは消え、頭上の電線は所々で切れて火花をあげていた。わたしはレースアップの靴の底で細かくなったガラス片を踏み、ああ、と思った。彼は来なかった。彼は来なかったのだ。わたしは壊れた街を呆然と見ながら途方に暮れていた。
 恋が結実しそうな予感と、早鐘のような鼓動と、熱い胸のときめきは余韻となってわたしの身体の中心に残っていた。しかし目の前に広がる荒廃した光景をぼんやりと見つめていると、それも少しずつさめていった。いやにひんやりとした手のひらの感覚だけが後に残った。
 街が壊れた瞬間、街だけではない何もかもが壊れたのだとわたしは悟った。わたしがさっきまで夢を見ていたあの場所、もう戻らない胸の高鳴り。
 彼は来なかった。彼はわたしを迎えに来てはくれなかった。
 力なく垂れ下がった自分の両腕を見る。震えてはいなかった。冷たくなった指先の感覚を確認するように、何度か擦り合わせてみる。そこにある腕が自分のものだという気がしない。街が崩壊したのと一緒にわたしの身体もばらばらになったみたいだった。
 わたしは歩き出した。人々は声をあげてあたりを走っていく。自分の足元を見下ろすと、靴も服もぼろぼろだけれど、歩けないことはないだろう。
 もしオーケーならキャミソールのドレスを着てあの店に来てくれ。
 わたしはついさっきまで自分が座っていた窓辺に背を向けて、荒れ果てた街へひとり歩いて行った。

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