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 ニューヨークの自然史博物館を出たところにあるかわいいワゴンの販売車で、キャラメルクリームのカップケーキをひとつ買って、外の階段に腰掛けた。視界の先には小学生くらいの子たちが輪になって話していて、彼らの多種多様な肌の色や服装を眺めながら、わたしはケーキを一口齧った。
 歯にしみるような甘さを味わいながら、空が青いなぁと思った。風が心地よく吹いて、頬に触れる空気がさらりとぬけていった。さわやかな秋の日和だった。
 十年以上前にひとりで行ったニューヨークを思い出しながら、わたしは今、家のベランダで空を見上げている。あの日とほとんど同じ色をした空は、高さがだいぶ違って見えた。
 突き抜けるようなニューヨークの空と、天蓋のような東京の空。漠然とした不安を抱えてひとり異国の地を彷徨った二十一歳のわたしと、十年を経てその不安が凝り固まったようになって動けない今のわたし。
 九月になるといつも思い出す。あのたまらなく不安で、寄る辺がなくて、どこに行っても大きなチーズケーキが出てくるニューヨークの街のこと。人でいっぱいのカフェの窓から差し込むやわらかな斜陽と、テーブルの上で静かに照らされたわたしの左手。小さなヴィンテージショップのショウウィンドウにカメラを向けて、何もかもを吸収しようとしていた自分の若さ。そのすべてがとても自由だった。
 わたしはあれから十年分の経験をして、十年分の失敗と羞恥と知恵と、少しの環境の変化を経て今ここにいる。しかしこの心根の変わり映えのなさったらない。わたしは今もあの時と同じ類の不安に打ちひしがれて、空の青さをじっと見つめている。名前も知らない鳥が視界を横切って、どこかへ羽ばたいて行く。
 秋はわたしの好きな季節だ。わたしが生まれた時節でもある。長袖のワンピースを涼しい風にはためかせて、街を歩けば黄色くかさついた葉が靴に触れる。そんなひとつひとつにときめいた。秋には夢のような光景が広がっている。
 わたしは今、この小さなベランダにうずくまって、鉢植えの多肉植物に触れながら生きている。いくつになっても変わらない心と、昔より少し脆くなった心。なんとか今日まで生きてきた事実と、これからも生きていこうという弱々しい決意がここにある。
 何年経っても憧れている、あの街に。でも、どこへ行っても生きるのは自分自身で、渋谷の朝方の青さも表参道の雑踏も、ニューヨークのそこはかとない自由も、感じとるのはわたしの心と身体だった。
 どこへ行ったとして、何も変わらないのかもしれない。けれどわたしは今、旅がしたい。よくわからない言語に囲まれて、ボリューミーなベーグルサンドとコーヒーを手に公園を歩きたい。夜に輝くエンパイアステートは眩暈がしそうなくらい高くって、高揚する胸にはカメラを提げて、その瞬間を切り取りたい。
 わたしはこの季節に何度だって生きなおす。自分にできることをして、日の終わりに泣かないで済むように。
 秋の始まりに、とくとくと胸が脈打っている。まだ暑い九月の午後。

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