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夜の歌

 ひとりの部屋で煙草を吸うことに飽きた夜、僕は旅に出た。
 見上げた紺色の空に、星は見えなかった。代わりに少し欠けた歪な月が見えた。子どもの頃は星に願い事をしたけれど、大人になると月のほうがくっきりと見えるのはなぜだろう、なんてことを思いながら、僕は歩いていった。
 まだ夏の気配が色濃く残った道端の雑草は、夜の静けさの中でしっとりと湿っているようだった。
 公園が目に入ったのでブランコに乗ってみる。少しずつ勢いをつけて、そのうちにめいっぱいの力で。一心不乱にひとりで漕いでいると、途端に、僕は自由なのだという気がしてきた。浮遊感、落ちる、浮遊、落ちる。ブランコの軋む音が薄闇に響いていた。確かに、僕は自由なんだ。なんのしがらみもない。なんの制約も足枷もないのに、どうして今の僕にはこんなにも、何もないのだろう。こうして夜の舟を力いっぱい漕いでいると、頬をきる風に身体ごと溶けてしまいそうな気がしたので、僕はぴょんと飛び降りた。どこから、もちろんブランコから。着地は成功。見ている人は誰もいない。歩く。
 道の向こうでひとりぼっちで光っている自動販売機を見つけた。ジュースを買おうとして、財布を持っていないことに気がつく。さして問題じゃない。ジュースを買えなかったことくらい。僕は気にしないようにして、また歩いた。速度はどんどん早くなる。意識しているわけでもないのに自然と。うろ覚えの歌を口ずさみながら。秋の葉に恋心を乗せた歌。今、僕の周りの世界は宇宙のように目まぐるしく回っている。
 ふと立ち止まった先のショウウィンドウのマネキンと目が合った。目が合っていると思っているのは僕のほうだけで、奇跡的な優美さで宙に浮く白い指はぴくりとも動かない。僕はそっと指を合わせた。ガラス越しに。彼女に触れたような、触れられなかったような。これ以上見ていたらマネキンに恋をしてしまいそうだったので、僕は店先を後にした。夜はまだ深い。
 それからも、歩いて歩いて、ひたすらに歩いた。川べりを歩きながら水の流れに石を投げて、少し疲れたら土手に座って休んだ。空を見た。さっきは見えなかった小さな星に、気がついた。僕はまた歩いて、夜のタクシーの明かりを頼りに横断歩道を渡った。うねっている道もあれば、ずっとまっすぐな道もあった。どこへ行っても変わらないのは、どこもかしこも濃紺の夜の中だということ。静かに。それと、歩いているのは誰でもない僕だということ。
 この夜に、色んなものを見た気がした。少しずつ白んできた空を見て、部屋にいる時より呼吸がしやすくなった気がした。
 僕は帰る。この夜から。最早どこまで来たかわからない。
 帰り道に見つけた自動販売機でジュースを買おうとして、僕は財布を持っていなかったことを、思い出した。

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