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ホリデイの宝石

 久しぶりの休みだった。十二月三週目の日曜日。ここのところは仕事が忙しく、土日でも出勤することが続いていた。ふと気がつけば季節は巡り、すっかり冬らしくなっていた。
 そんな日曜日の朝、窓ガラスを薄く開けて覗き見た外の景色は白っぽく曇っていたけれど、その空気はしんと張りつめて冷たく、どこかすっきりとした印象を受けた。背筋が伸びるような気持ちだった。わたしはひとつ深呼吸をして窓を閉めた。
 次の休みがきたらやろうと思っていたことがある。通勤途中に見上げる東京の街はすっかりクリスマスムードで、木々を彩る電飾の明滅を見ながら思い出すのは、いつもこの時期になると母が作ってくれたロシアンクッキーだった。仕事に忙殺されるわたしにやっと訪れた自分だけの時間。今日はそのロシアンクッキーを自分のために焼こうと決めていた。
 ロシアンクッキーとは、絞り出したクッキー生地の土台の真ん中にジャムをぽってりと落として焼き上げたものだ。子どもの頃、母が作ってくれるそのクッキーの、宝石のようなジャムのきらめきに、いつも胸をときめかせていた。わたしはお皿に並んだクッキーを食べることも忘れて、いつまでもうっとりと眺めていた記憶がある。
 材料は昨日の夜、仕事帰りに買ってきてあった。わたしは冷蔵庫を開けてバターを取り出すと、ボウルに入れてヘラで練りはじめた。本来ならバターが練りやすい状態になるまで常温に戻す時間が必要なのだけれど、今のわたしにはその待ち時間を一人でどう過ごしていいのかがわからなかった。わたしは硬いバターを力を込めてボウルに押しつけていった。
 母はよくお菓子作りをする人だった。その影響か、時間がある時にはわたしも時々お菓子を作った。バレンタインやクリスマス、記念日などには恋人にケーキやクッキーを作ってプレゼントした。一緒においしいね、と言って食べる時間の濃密さを思い出していた。それと同時に、ため息が出た。わたしは約三年付き合った恋人と先週別れたばかりだった。
 付き合って一年目のクリスマスに、わたしは恋人にロシアンクッキーを焼いた。ラズベリーのジャムを落として焼いたもので、恋人はおいしいと言って食べてくれた。二年目のクリスマスプレゼントはルビーのピアスだった。わたしが焼くロシアンクッキーを思い出して、赤い宝石のピアスを選んだのだと言って、彼は微笑んだ。
 そして三年目のクリスマスは、あと数日というところで二人で迎えることが出来なくなった。仕事にかまけて二人の時間が十分にとれなかったことが原因になるのだと思う。お互いが忙しかった。仕方ないといえば、それまでのことだ。
 お菓子を作っていると色々なことを忘れることができた。仕事のこと、恋人のこと、本当は別れたくなかったこと。無心になってバターを練る。少しずつ薄黄色い塊が柔らかくほどけていく。粉を加えて、さっくりと混ぜ合わせる。生地がまとまったら絞り袋に入れて、天板に丸く絞り出していく。今日はラズベリーとレモンのジャムの、二種類を作ろうと思う。スプーンでジャムを落としていくと赤と黄色のかわいらしいクッキーの形が、わたしには今でもペンダントトップやブローチに見えた。童心に返ったような、泣きたいのだか笑いたいのだか、なにがなんだか自分でもよくわからない気持ちに、ひとり苦笑した。
 予熱していたオーブンにクッキーを入れてしまうと、わたしは紅茶を淹れた。窓の外を見ながらゆっくりと一口飲む。ベルガモットの香りが鼻に抜けていく。どうして世界の見え方がこうも違うのだろう。たった一人、失っただけなのに。外は白く、靄がかかったように不鮮明だった。
 芳醇なバターの香りと共に焼き上がったクッキーは完璧だった。熱が入って濃度を増したジャムが、うるんだように輝いていた。わたしは皿に乗せて、ひとつかじってみる。甘酸っぱいジャムの味、バターの匂い、ほろほろとくずれる生地の食感、わたしだけのためのロシアンクッキー。カップの中の紅茶の波が滲んで見えた。おいしい、本当においしいクッキーだった。
 スマートフォンが鳴った。また休日までも仕事の連絡かと思いながら、うんざりした気持ちで画面をタッチする。話し合おう、というメッセージ。先週まで恋人だったあの人から。わたしは泣きたい気持ちだったし、笑いたい気持ちだった。実際泣きながら笑っていたのだと思う。
 わたしは急いで寝室に行き、ドレッサーの前に座った。指先にはルビーのピアス。耳に付けるときらりと輝く。
 わたしは着替えて出掛けよう。こんなにもおいしく出来上がったロシアンクッキーを持って。
 あなたは食べて笑ってくれるだろうか。クリスマスを控えた街は、どこもかしこもきらめいている。わたしの耳許も、心も、みんなロシアンクッキーみたいに、きらきらとして。

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