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祝福のしらべ

 本を一冊読んだ。わたしと同年代の人が書いた小説だった。
 特別その本が素晴らしかったとかではないけれど、それはわたしには書けない文章で、作品で、それが評価されて本として刊行されているということに軽く絶望した。こういうものが求められ、認められているのだとしたら、わたしが文章で一旗あげたいなどと思うことは到底かなわぬ夢だと思ったからだった。
 その本はわたしが読んだ印象としては、とても健康な人が物語を作って、書き上げた作品だということ。現代社会に対する風刺に富んでいて、文学作品としての技術もある。三人称で語られるところなんかもわたしの不得手とする部分だった。
 わたしはわたしに書けるものしか書けない。わたしは感情的で、わたしの感じたことでしか物語を作れないし文を書けない。この本の作者と自分は、あまりに真逆だと思った。健康そう、というところもなんだか負けた気がした。所詮マジョリティには勝てないのだと思い知らされたようだった。最近精神的に滅入ってつらい日々を過ごしていたけれど、そんな最中でも流れなかった涙が、悔しさから自然と溢れ出た。
 しかし、とわたしは思う。わたしの主治医が以前こんなことを言っていた。マイノリティはいつの時代も一定数いるのだと。それは淘汰されずに、いつも必ず社会に存在している。その意味とはなんなのか。必要だから、いるのだろう。
 わたしにはわたしが書ける文章しかない。逆を言えば、わたしにはわたしに書ける文章がある、ということだ。それは強さになるのだろうか。今持っているものにたくさんの力を付けて、磨いて、武器にすることはできるのだろうか。わたしはわたしの力を昇華して、わたしなりの最大限すばらしい小説を書くことができたなら、それは評価されてもされなくても良いことだろうとも思う。
 わたしはわたしの持っているものをより良くする。経験して、考えて、芸術に触れて本を読んで、さまざまなものでわたしの力を高めることが大事なのだろう。それはとても健全な生き方だ。そして、希望に満ちている。
 人生は希望に満ちていなくてもいい。生きるということは寿命を全うすることで、その中身なんて二の次、さんの次なのだとは思うけれど、自分がより良いとすることを求めるのは決して悪いことじゃない。
 今日、家の窓辺に飾った花を眺めてこんなことを思った。花はいい。わたしは植物園に行きたい。洋服が好きなわたしはかわいいワンピースで着飾り、植物園で花と写真を撮りたい。そしてその写真を見ながら元気を出して、新しい小説を書きたい。わたしの人生はその繰り返しであればいい、と。勿論その写真を撮るのは夫で、わたしの姿をいつも隣で見てくれている。
 そう考えた時に、わたしは人生を明るく生きるためのものをもうすべて持っているのだということに気がついた。
 なんて幸福なのだろう。奇跡と言ってもいいのかもしれない。この事実にトイレで気づいたときは、嬉しくてひとり小躍りした。
 わたしはわたしとして生きていく。毎日を生きるのは困難の連続で、それでもその果てには人生が終わるというゴールが見えているから少し安心する。
 生きていきたいと思う。より良くしたいと思う。その意思がある。最近少し元気なのはとても嬉しいこと。そうじゃない日もあるけれど、生きているから、生きるだけ。そういうニュートラルな気持ちでいられたら少し生きやすくはなるけれど、生きやすいことが良いことなのかどうかは、まだわたしにはわからない。

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