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理不尽に耐えられない人という生き物

久しぶりに文章を書いてみようかなと思い立ちました。もう秋ですね!

さて、秋と言えばハロウィン。日本ではオバケの仮装をする、楽し気なイベントとして根付いておりますね。

私も大好きです、和製ハロウィン。

怖いのがいいんじゃない!という珍しいイベントですね(笑)


そんなわけで、今回は「恐怖」について少し語ってみます。

私はスピ業をやっておきつつも、オカルトも大好きで、ホラーも好きな割と少数派の人間なのですが。

人々の恐怖を見ていると、ある時ひとつの着地点に降り立ちました。

「恐怖」とは、生存本能ではないのか、と。

怖がりは生命力が強かったりします。怖い場所が「怖い」とわかるからです。

自分にとって害があるかもしれない場所に恐怖を感じる事で命を守っているんじゃないでしょうか。

それはオバケの居るような場所かもしれないし、もしかしたら会社や学校かもしれません。「なんだか怖い」とか「いやな予感がする」っていう事自体は、「気のせい」で片付けず、自分にとって怖い場所なのだと、しっかり怖がることが必要かもしれません。


そもそも「気のせい」の「気」は大切なものです。私はそれを数値で観測は出来ないけれど(※少なくとも一般人には。計測する機器などはもうあるかもしれませんが)、確かに生き物に流れている、血みたいなものだと思っています。

どっちかというと音に近いのでしょうか、気が振れる、というのは、音のボリュームみたいに、リズムが崩れ乱れることだと思います。


話が逸れましたが、恐怖っていうのは正常な人間の反応で、それぞれの人によって違うものだと思います。

そして「恐怖」と「信仰」も同じようなものがあると思っています。

良いことも悪いことも、人間という生き物には、なかなか受け入れがたいものなのではないでしょうか?

「なんだそんなこと」と思う事であっても、案外、人の感情タンクは小さくて、「怖すぎる」「痛すぎる」「悲しすぎる」「嬉しすぎる」「幸せすぎる」などなど、自分の許容量に「過ぎる」ものを抱えては生きていけないのではないか、と恐怖を見詰めていて思うようになりました。

嫌な出来事も良い出来事も、人にとってはストレス、というのは聞いたことがあるでしょうか。ストレスフリーでも生きてはいけませんが、当然ストレスがかかりすぎれば人は壊れてしまいます。

良い事も悪い事も、人は多かれ少なかれ、「なにかのせい」にします。

ただただ、「今日はケガをした」じゃすまないし、「宝くじが当たった!」じゃすまないのが、多数の人々なんじゃないでしょうか。


理不尽というとイメージの悪い言葉かもしれませんが、例えそれが喜ばしいことであっても、自分の理では理解できないこと、自分の理をはみ出てしまったこと、それは抱えきれないものなのかもしれません。


「なにかのせい」というのは、生き物の当然の防衛反応、生存本能であり、良いの悪いのとは思っていません。ただ、私は自分の「そうなのかな」という思いをぼーっと眺めました。

これからもきっと、そういうものを見ていくだろうし、自分もそういう動きをするのでしょう。けれど、ほんの少し、冷めてしまった自分も居ます。

全てが「ただそこにあるだけのもの」なのではないかと。

なんてね、ふふふ。


数々の理不尽に理由を付けて生きていく、自分の理を作り広げて積み上げてゆく、人生は壮大な創作なのでしょうね。




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