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先生を辞めてすぐ、親になって気付いた『親から見る学校』

晴れて、親馬鹿である。毎日、我が子を「天才なのではないか」と思い、泣きそうになる度に抱きしめている。抱きしめたいがために、少しいじわるをして、泣かせてしまう時すらある。
そして、ふと考える。この子にどんな大人になってほしいか。どんな経験をしてほしいか。すると、今まで全く感じたことのない感情に気づく。

「学校って、あくまでも教育の一つの選択肢か」

フリースクールやオルタナティブ・スクールなどという話ではない。習い事や遊びやおもちゃ、本、会話、それらと並列の、たった一つにすぎない。

先生としての自分は、クラスの調和を保ち、いきいきと考え、発言する授業を提供してきたつもりだ。 確かに、それらの学校での学びは、子どもにとって素晴らしい経験であるように思う。(そう思いたい!)
だが、親にとってはどうだろうか? 親としての自分は、「学校では、子どもに身に付けて欲しい資質・能力が身に付くわけではない」という前提の元、子どもの教育を考えている気がする。

親目線の教育と先生目線の教育。このギャップは、
「親という視点の欠如」からきている?

「学校が魅力的でない」とは、全く思っていない。でも、学校教育を提供する当事者と親との認識にはズレがあるのではないだろうか。

〇親としての自分からみた「学校教育」
学校はあくまでも選択肢の一つ。質よりも広さを求めている。
色々なことを経験できること。そこが学校の魅力。
複数人の中の一人なので、教育的な質は、そこまで担保されていない。

先生の自分は、こんな風には考えていなかった。よりよい授業を行い、少しでも発言し、考える時間を増やそうとしていた。でも、それが学校に求められている、本流ではなかったのかもしれない。
「授業こそが、学校の価値」ではなく、「多様な属性の中で、関心のあるものから今後一切関わることのないモノまで、広く経験できること」が学校の価値なのではないだろうか。

先生や学校が、できることって何だったんだろう?

「多様な属性の中で、関心のあるものから今後一切関わることのないモノまで、広く経験できること」が学校の価値であると仮定した場合、先生としての自分ができたことは何だったんだろう。

1つ目は、あくまでも選択肢の1つであると考え、経験という学校の強みをもっと前面に押し出すこと。
2つ目は、学校の役割を再定義し、広い学びをつなぐような教育を行う=子どもたちが各所での学びをいかすことができる力(伝える力や思考力などのスキル)をトレーニングする場にすること。

この2つでは、ないだろうか。1つ目は、何かを見たり、どこかへ行ったり、色々な意見や話を聞いたりする場を増やすこと。2つ目は、学校外での個人の学びを学校・教室という場で繋ぎ合わせて、インプットの場から、アウトプットの場にすること。

ここまでの文章を全て無にすることが可能な「多忙・労働時間」という魔法の言葉があるが、それでも、このギャップと向き合い、考え直すことはできるはずだ。変わることには時間がかかるかもしれないし、不可能かもしれない。でも、考えたことは無駄にはならない。まずは、「子どもたちにとって、本当に大切なことって何なのか」を紙に書き出してみればいい。
それが、学校や社会を良くすることのスタート地点になる。

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