1/30のばんごはんの話

仕事が終わり、帰宅した。
最近自炊をサボり気味で、元気が出ない。
めんどくさい。
どこかで食べてこようかという誘惑に駆られる。
冷蔵庫を開く。
3週間くらい前に買った株が、触るとちょっと柔らかくなってきている。
そろそろ使ってあげないとさすがにやばい。
他に野菜室に鎮座しているメンバーは、キャベツ、にら、プチトマト。
外食よりも、お味噌汁と漬物みたいな、優しくて素朴な味を求めていた。めんどくさいに打ち勝ち、鍋に水を沸かす。
昆布を細かく切ってお出汁を取ろうとするが、引き出しを除いても見当たらない。そうだ。昆布、こないだ作った味噌汁で使い切ったのであった。
顆粒だしや鰹節もあるが、なんとなく、今日は体が動物性や人工的な味のものではなくて、植物性でなるべく無添加な味を求めているようだった。味の深みとかよりもそちらにニーズがある気がしたので、体の声に従ってみることにする。
味噌汁を作りたいのだが、キャベツはまだ新しくて炒め物とかに使った方が味が映える気がしたのでなるべく味噌汁には使いたくない。プチトマトを触ってみると、例によってやわやわになってて限界が近そう。
「うーむ」
やったことはないけど、味噌汁にプチトマトをを半分にカットし投入してみることにした。この時点で出汁はなにも入れてない。さすがにどーにかならないものかと引き出しをさらに捜索すると、いつかのドライトマトが出てきた。
トマトどんだけ好きやねんと思いつつ、これを煮たらいい感じにトマト出汁が出そうな気がしてきて、思い切って細かく刻んで投入。
これだけで出汁代わりにするのは少々心許ないので、なんかよくわからないけど梅干しを一個刻んで入れてみた。この梅干しも、紫蘇と塩だけのシンプルな無添加味のものである。
煮込んでいる間に先ほどの限界間近赤株を薄く半月切りにする。今、ふるさと納税で届いたりんごがたらふくあるのでこれと株を酢の物にしてみることにした。株を塩揉みし、しんなりしたら水気を切りりんごを加え、塩麹と酢と塩麹、体があったまりそうなので生姜、いつかのレモン汁を投入。なるべくシンプルな味といいつつ、目についたものは実験的にいろいろ入れて見たくなってしまう癖がある。
この癖が化学反応を生み新たな美味しい料理を生み出したり、もう2度とつくらまいというようなブツができあがったりするが、どちらに転ぶかは最後までわからない。
でも実験はやめられない。それは、料理で実験を続ける人間の矜持である。
なんてことを考えながら合えた株を味見。お、いいぞ。私は相当な舌音痴というか、何を食べても受け入れ体制万全なところがあるので客観的な評価はわからないけど、シンプルでとりあえず予想通り体に優しい味がする。何を食べても基本オールオッケーな私が食べるおかずだ。体に優しくさえあれば、本日の料理もオールオッケーなのである。
酢の物できていえいと思いながら先ほどの煮込んでいる鍋に視線を戻す。コトコトと可愛くプチトマト達が煮えている。
仕上げに細かく刻んだにらを入れる。キャベツはまだしゃきしゃきして新鮮そうだったので炒め物じゃないと!と思ったけど、にら氏はなんとなく「僕は味噌汁だっていけるよ」と言っている気がしたので、彼(にら)との対話の末、味噌汁の具になっていただくことにした。
何気にプチトマトもにらも初めて味噌汁に入れる。出汁はドライトマトだし、もはや「味噌汁」ではなく、どこか海外の風を感じるので今日の味噌汁は特別に「ミソスープ」と海外気取りな呼び方をしてみることに。
仕上げにワカメも入れる。やっぱり色々入れたい癖が仕上げにまでさかる私なのであった。

できたての雑穀玄米ごはんに生卵と納豆をかけて、ミソスープと赤株りんごの酢の物を用意する。ホクホク。いただきます。
ミソスープ、想像以上に美味しい。トマトのさっぱり感がいいし、色々入れたからか昆布などの出汁がなくても味がしっかりしている。酢の物も、赤株のしゃっきり感がくせになる。今日は実験が功を奏した日だったようである。普通にまた作りたい。
玄米ごはんが大好きなのでおかわりして、2杯目はミソスープに加えて雑炊風にした。

こんな風に料理するのが私は好きなのである。どんな風にだ?
…なんとなく、食材が、「こうしてほしそう」だなというのを感じながらお料理をしたり、少しだけいつもよりも枠からはみ出したお料理が、その中から自然と生まれたりしたら、なんかとても心地よい。
料理の時間や、食材と丁寧に向き合える自分にも心地よさを感じることができる。
そんな感じです。丁寧に向き合えば、ただのお料理だってセラピーみたいな時間に変わる。またお料理作ろうっと。

(動物性が云々とか言いながら普通に卵食べてる私に最後気がついた)

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