飛雄馬と私とクリスマストラウマ

最近、毎日文章を投稿している。
あと、standfmというインターネットラジオが放送できるアプリを使って30分のラジオ放送、YouTubeではご飯を食べている映像におべんちゃらを副音声で入れた、どういう層に向けたのかよくわからない動画を、毎日更新している。
私はデイリースケジュール帳を持っていて、最近毎日の予定を1時間刻みで入れている。
その中に必ず、自分の表現活動のために時間を入れている。
私は時間管理がぽんこつなので、放っておくと自分のやりたいことをずっとできずに一年とか放置してしまう。なので、もう半ば仕事くらいの勢いで創作の時間をスケジュールに組み込むことにした。
そんな習慣をつけ始めて1週間ちょっと。表現するのは楽しい。だけどちらりと見えた己のYouTubeアップロード動画の再生回数が私の心を少しだけざわつかせた。

再生回数18回。

うん。いや18回再生してくださる人がいるのはありがたい。けれど。まあ宣伝もそんなにしてない上に無名のシンガーソングライターがご飯を食べてながら喋っている映像なんて、パッと見でまったく映えないし、何もいじっていないサムネを一目見て、動画を再生しようなんて思ってくださる奇特な方は少ないだろう(私だったら絶対観ない)。
今はとにかく自分の表現を外側に出してゆくこと自体が大切だと思っているのでそんなに気にすることはないと思いつつ、ふとほんのちょっぴり、小さじいっぱいくらい「何のためにやってんだろう」といういじけた気持ちにもなった。

私は自分で何かアイデアを考えて、それを形にすることが大好きだけど、同時にとても怖くなる。

インターネットで表現活動をすることもそうだし、イベントの主催をするときなんかもそうだ。そんな作業をしている時、私の脳裏にちらつく映像がある。
子供の時に見た、『昭和のアニメ名場面集』みたいな番組。
そこで、「巨人の星」で有名な「飛雄馬のクリスマストラウマ回」が紹介されていた。
知らない人のために説明、というかこちらのサイト(https://dic.pixiv.net/a/何がクリスマスじゃあい%21)からまんま内容を引用させていただくと、

ーこれはアニメオリジナル回で、クリスマスパーティーを企画した星飛雄馬が親友の伴宙太に言われた言葉である。そもそも彼がそのキャラに全く合わないクリスマスパーティーの企画を始めたのは、ライバルのアームストロング・オズマに「野球ロボット」呼ばわりされた事が発端であった。
野球に人生の全てを注いできた飛雄馬にとってその言葉は非常に重いものであった。そして自分が普通の人間のような青春や楽しみを謳歌できなかったがゆえに人間性を欠いてしまった事へ強いコンプレックスを抱くようになってしまったのである。それからの飛雄馬は失った青春を取り戻すかの如く遊び回ったりはっちゃけてTV出演したりと必死の日々を過ごしたが、その極めつけがこのクリスマスパーティー企画だったのである。
だが、当然野球に人生を賭けている他の仲間やライバルからは白い目で見られた。特に親友で彼を案じる伴は「以前の姿に戻ってくれ」と説得するが、当然飛雄馬が聞く耳を持たなかったので伴は「何がクリスマスじゃあい!ちくしょおおおおおおおお」と捨て台詞を浴びせ去ってしまった。そして準備万端整えて迎えたクリスマス。ケーキもセットも用意して後は招待した仲間やライバルを待つばかり……。
しかし、いつになっても誰も来ない。ライバル達は飛雄馬となれ合う事を良しとしなかったので参加を辞退し、仲間達も家族も誰一人来なかった(厳密には、伴は宿舎の外から飛雄馬を見守っていた)。
彼に追い討ちを掛けるかの如く、脳裏に飛雄馬を「野球ロボット」呼ばわりしたオズマが罵倒する声が響いた。何度も何度もオズマは飛雄馬を罵倒した。飛雄馬は泣いた。泣いて暴れ回り、また泣いた。せっかく準備したケーキやチキンもテーブルごとちゃぶ台返しにして全てぶちまけ、ツリーや椅子を投げ飛ばすて窓ガラス等も破壊しまくって泣きまくった。この出来事が飛雄馬の心を深く抉る事になったのである。

https://dic.pixiv.net/a/何がクリスマスじゃあい%21

…。

当時5歳ほどだった私はこの映像を観ながら背筋が凍る思いがした。
もちろん当時5歳の私にそんな苦すぎるクリスマス経験はある筈もないが、その飛雄馬の虚しい後姿はなぜかリアリティを持って己の胸に突き刺さり、一か月くらい頭から離れなかった。たぶん、私は前世で仲良しと思っている友達を呼んで自分の誕生日会とかはりきって開いて、手作りのケーキとかいそいそと用意したはいいけど当日誰も来なかった、みたいなトラウマがあり、その心の傷が飛雄馬の姿と重なったのではないかとにらんでいる。

なにか自分で考えて行動しようとする度、飛雄馬の姿が頭に浮かび、「あんな風にカッコ悪い姿見せるハメになるぞ」「やるだけ惨めだぞ」なんて私の心の奥に潜むもう1人の自分、ブラック伶が囁いてくる。その声に引きずられてやりたいことをそっとあきらめ、なんとなく、周りや世間と思っている何かが求めている(気がするだけだけど)何かになろうとしていた。

だけど、私は今、毎日ちょっとだけ勇気と根気を持ってささやかな表現を続けている。
この表現たちが何になるのか、どこかに繋がるのかはわからない。歌にしろ文にしろ、自分の表現の核として届けたい部分が伝わっているという手応えは正直、今のところない。
だけど私はこれからも表現を続けてゆくだろう。無駄なことかもしれないと思いながら。


ーひとつ恥を忍んで告白をすると、私は空花伶から生み出される表現をちょっと面白いと思っている。

こんなこと言って自分のこと客観視しろよとか思われるかもと思いつつ、たまに何の気無しに自分のラジオを聞き返すとどこでも聞いたことのない、よくも悪くも唯一無二の自由さがある。先日、「絶対に売れなさそうなミッキー」のモノマネを披露した回を聴き直してみたらアホすぎて自分で笑った。普通に面白かった。今のところ自分以外の人からラジオについて感想をもらったこと、ほとんどないんだけれど。
ラジオ番組のフォロワーは12人である。うち何人がちゃんと番組を最後まで聞いているかもわからない。

だけど、しばらく表現を続けているうち、私の今やっている表現ですでに小さく救われていて、ちゃんと自分の核の部分が届いている、そんな誰かがすでにいる、なぜかそんな気がした。誰からもそんなこと言われたことはないけれど。
大好きな週一の深夜ラジオに唯一の居場所を感じて、命を救われていた10年前の私のように。
誰なのかはわからないが、妄想なのかもしれないが、もし妄想なら、その架空の誰かに向けて、私は届けよう。そう思った。

信じれば、それは真実である。どんな虚構や妄想だろうがそれを信じて生きてゆけるなら、使えるものは使えばいいじゃないか。信じこんでいつの日かそれを現実の世界にほんとうに作り上げらることができるかもしれない。ならば、それでいい、そう思った。

YouTubeの再生回数も、伸びないラジオやエッセイのフォロワー数も、現実はほんのちょっとだけ無視して、とてもとても今すでに私の周りは賑やかで、たくさんの人が私の表現に笑って小さく救われている。という世界のなかで私は今日もたのしく表現を続けてゆこう。そして、私のちっぽけな表現を楽しんでくれている誰かの存在に、私自身が救われている。遠い未来ではなく、今ここで、すでに。
そう思いながら賑やかに、今日も表現を続けてゆく。ひとりぼっちの小さな自室から。



※せっかくなので各表現活動のURLを。

空花伶のオールタイムせかい(Stand.fmのラジオ番組)
https://stand.fm/channels/6599113d67b0dad5c5ed824f

空花伶の生態系れれれ(YouTubeちゃんねる)
https://youtube.com/@user-uy2cu4gr8y?si=JtElutFsXJ9UPnsa

今日のエッセイ
Inspired by 「日常」星野源
https://youtu.be/6D01Q2jn9A8?si=Jwz0UZj_16sOePir

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?