見出し画像

信じるということ

信じていたのに、騙された。
信じていたのに、裏切られた。
信じていたのに、捨てられた。

信じていたからこそ、騙されたのでは?
信じていたからこそ、裏切られたのでは?
信じていたからこそ、捨てられたのでは?

なにも言葉遊びをしようという気は毛頭ありません。

騙された人、裏切られた人、捨てられた人を嘲笑しようという気もありません。

むしろ信じられる人がいたことに、私はうらやましさを感ぜずにはいられないのです。

騙された人、裏切られた人、捨てられた人の気持ちを思うと、軽はずみ、適当なことは言えませんが、やはり、私にはうらやましいと思わずにはいられないのです。

人を見たら泥棒と思えというほどに、人間不信では無いのですが、私は50年近く生きてきて、今までにほとんど、人を信用したことが無いように思います。

と言うと、親、兄弟、自分の家族を信じてないのかという反論、疑問が湧くだろうと思いますが、どうなんでしょう。

そもそも親、兄弟、自分の家族を信じるか信じないかといった次元で考えたことがありませんし、信じる信じないの対象なのかなと思います。

私が中学生の時、オヤジは家族を捨てて蒸発してしまいましたが、その時、オヤジに裏切られたとは思いませんでした。少し悲しい気持ちにはなりましたが、いなくなったのはしかたがないと、すぐに、親父のことなど忘れてしまったように思います。

また、もし、私の相方に浮気されたとしても、裏切られたとは思わないでしょう。最初のうちは冷静ではいられないでしょうが、最後は、しょうがないとあきらめるだろうと思います。

親父の蒸発の件にしろ、相方のもしもの話にしろ、繰り返しになりますが、そういう巡り合わせだっだのだろうという感想にしか至らないように思います。(淡泊すぎますかね)

では、友人に関してはどうか。

たとえば、たとえばですよ。仮に私に1千万円の蓄えがあるとして、友人に1千万円貸してくれと言われたら、貸さないだろうと思います。保証人になってくれと言われても、断るだろうと思います。なぜなら、自分の家族を路頭に迷わせることはできないからです。

だけど、500万円貸してくれと言われたら、私は貸すだろうと思います。たとえ、相方と喧嘩になっても貸すだろうと思います。なぜなら、大切な友人を助けたいからです。

そして、もし、友人から500万円が返ってこなかったとしても、私は、その友人に裏切られたとは思わない。なぜなら友人に500万円をあげるつもりで、貸すからです。

全財産をかけてまで、友人を信じることはできないが、友人にできる最大限のことはしてやりたいとは思っています。大切な友人を借金ごときで失いたくはないのです。

それと、「信じていたのに裏切られた」などと、大切な友人を非難し、憎みたくはないからです。

仮の話で、大風呂敷を広げたところで説得力はないと思いますが、普段から、友達から借金の申し出があった場合、満額は出せないけれども、自分が出せるぎりぎりまでは貸してやりたいとは考えています。

さて、若い頃、マルチ商法に手を出した友達から、「絶対に儲かるから、一緒にやろう」と熱心な誘いを受けたことが2,3回あります。さらに、たくさんの人が集まるマルチ商法のセミナーにも参加したことがありました。

セミナーでの講師の話は、友達の話とは比べものにならないくらいに、理路整然(内容により)としていて、聞いていて面白いとは思いました。しかし、「絶対に儲かるから、一緒に頑張りましょう」という言葉が出てくると、私は一気に興ざめるのでした。

絶対に儲かる話など、絶対にこの世には存在しないと、変に確信めいたものを高校生あたりから持っていましたので、マルチだったりネズミ講だったりに引っかかることはありませんでした。その分、マルチに勧誘してきた友達とは、それ以来、疎遠になってしまいましたが。

相方と付き合い始めて、まだ日が浅いときのことでした。

「今日は臨時収入が入ったから、私が晩ご飯をおごるね」と相方が言うのでした。さらに、相方は臨時収入の出どこについて話始めたのでした。

相方の話を簡単にまとめると「ある投資会社に投資していて、年に一回利息が入ってくる」とのことでした。

私はそれを聞いて、すぐに「それはやばいで」と思いました。なぜなら、その当時、日本はいわゆるバブル経済が崩壊して、失われた十年などと言われていた時期だったように思います。当時の詳しい銀行の金利がどれだけだったのかはわかりませんが、私の印象では雀の涙ほど、いやそれ以下だったように思います。

だから、相方の話を聞いて、その投資会社の金利が異常に高いように私には思われたのです。

それで、わたしは、相方に対して、銀行金利の対して、その投資会社の金利は、高すぎないかと控えめに伝えました。今なら、「そんなもん、やめとけ。はよ、解約してこい」と強く言えますが、当時は付き合い始めたばかりで、相方に嫌われたくはなかったのです。

相方の話を聞いた一年後ぐらいのことでした。テレビニュースである投資会社の詐欺事件のことが大きく取り上げられていました。私は、「あ~あ~、また騙されたんかいな」と思いながら、そのニュースを見ていたのです。

もう、みなさんもおわかりですね。ここで、オチもオチ。

そうなんです。詐欺事件をおこした投資会社は、相方が投資していた会社だったのです。

騙された相方は大金を失い相当ショックだったっと思いますが、私も腹わたが煮えくり返るほどの怒りと後悔でいっぱいでした。

私がついていながら・・・

あの時にもう少しハッキリと「それは、騙されてる」と言ってやれば良かったと。

もう少し話を続けます。

信じる信じないでいうと、神様のことがありますね。神様がこの世にいるのかいないのか、私にはわかません。

だけど、子どの頃から、苦しいときの神頼みはよくしていましたし、初詣で神社に行った際は、5円玉ひとつの賽銭で、欲張っていくつものお願いをしていました。

恥ずかしい限りですが、大人になった今でも、神様との関係は子どもの頃とあまり変わらないように思います。

母親の友達に、ある宗教の熱心な信者の方がいて、若い頃、その方から私は、何回かその宗教に入信するように誘いを受けたことがありました。

一度などは、手を握られて、涙ながらに「一緒に信心しましょう」とお願いされたこともありました。これは反則ですよね。この時ばかりは、どのようにして断ろうかと、少し焦りましたが、頭を縦に振ることはありませんでした。

あるときは、私の友達から「話を聞くだけでいいから」とお願いされて、ある宗教の青年部の集まりに行ったこともありました。

そこには、私と同じような年齢の人達が10人ぐらいいたでしょうか。

最初は和気あいあいとした雰囲気の中、その宗教の素晴らしいところをいろいろと話してくれていたのですが、後半はその場にいた人達からの勧誘攻撃でした。

10対1でのやり取りはきつい。

相手方はそれなりに理論武装しているわけで、私には、これと言った宗教観など無く、ただ、そんな夢のような話は、信じられないということだけです。

硬軟織り交ぜた説得が続きました。胸ぐらをつかみ合う寸前までのこともありました。それでも、私は気持ちが揺らぐことは全くありませんでした。何を言われても、本当に信じられないのだから、もうどうしようもありません。

神様がこの世にいるのかいないのか、宗教とはなんなのか。不勉強で私には確固とした考えはありません。私の恩師から聞いた受け売りの言葉になるのですが、「疑いつつ、祈る」というのが、神様に対す向き合い方になっています。

信じるということについて、長々と書いてきましたが、結局の所、私は異常なほどの臆病者なんだと思います。そして、その裏側には、くだらないプライドがべっとりと張り付いているわけですが。

信じないということで、これまで詐欺などには遭わずにやってこれたのですが、その分、なんだか味気ない人生を送ってしまったような気もします。

最後までお付き合い下さりまして、ありがとうございました。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?