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精神的バックパッカーであり続けること

今から34年前、26歳になる頃に、ワーキングホリデーでオーストラリアに1年ほど滞在した。その後、途中の一時帰国はあったが、計2年半に渡りオーストラリア〜東南アジアをバックパックで旅した。

バリ、ジャワ、スマトラ、シンガポール、マレーシア、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、再びタイそしてミャンマー国境の難民キャンプ。

凱旋門を模したラオス・ビエンチャンのパトゥーサイ。内側は仏画でビッシリ。
ラオスで仲良くなった観光局の人たち。みんな親切!

カンボジアは、ポルポトの支配からやっと暮らしが戻りつつある時期だったが、地雷がまだあちこちに埋設されていて危険極まりない。わたしたちは、一日だけアンコールワットに行くことが許された。

大虐殺により、深く傷ついた土地や人たち。アプサラ(天女)のレリーフが施された美しい寺院で、ただ一人ひたすら祈る老女の姿が忘れられない。

ベトナムから再びタイに戻り、旅の終盤では、縁あってタイとミャンマー国境の、ビルマ国軍と内戦状態にあった少数民族および民主化陣営のキャンプ支援活動に関わった。

バブルで浮かれた日本と、距離はあれど同じ地球上でかたや戦闘状態が続いている、ということが自分の中で統合できなかった。

ただ一つ。メディアだけでなく、大衆心理も含む「マス」に踊らされてはいけない。言葉の真実や、物事は少し事象から離れ俯瞰して見なければ、と思うきっかけとなる日々だった。

民主化陣営のキャンプで出会ったリーダー。瞳の美しい男だった。
少年兵たち。まだあどけなさが残る。
さすが仏教国、キャンプにも僧侶が。

帰国後もしばらく「ビルマ問題を考える会」という市民活動に関わり、募金や報告会などを行なった。ここでは人に伝えることの難しさを痛感し、さらに自分の生活もあったので、しばらくして活動からも離れていった。

それでも、やはりミャンマーのクーデターやアウンサンスーチー氏禁錮などのニュースを聞くと、いまだに胸が痛む。何も変わっとらんじゃないか。

そんな旅をともにした友人と久しぶり(一人はそれこそ30年ぶり)に再会した。みんな歳を取り、多少の病気などはあるが、そこそこ元気にやっているのがうれしい。

1980年代の終わり、東南アジアの片隅でバブル景気とは対極の時代を吸っていたとき。それはわたしに、バックパッカーとしてのあり方をまざまざと思い出させた。

旅の当時、都市部にマクドナルドがあると人心が荒みギスギスする、という勝手な方程式ができあがっていた。それは、マクドナルド自体のせいではなく、固有の文化が市場経済に飲み込まれ「金、カネ」となった結果、長い年月をかけて培われた、人と人との結びつきが断ち切られるからだと思った。

なので、田舎へ田舎へと求めていた。

究極は、まだ電気も水もないタイ山岳民族の村々への旅だし、人もいないアンコールワットであり、ミャンマー国境の難民キャンプだ。

もちろん、誰も行かないところに行きたい、というのもあった。が、それ以上に「本当に大切な何か」に触れたいという、魂の欲求があったのだと今になって思う。

辺境で出会った人々は、正直お金はない。それを考えると、貧しいバックパッカーの我々ですら金持ちの道楽者だ。それでも、屈託のない笑顔で迎え、少ない中からご飯を食べさせ、言葉も通じないのに一生懸命コミュニケーションを取ろうとするのはなぜだ。

彼らは、その場から遠く離れることは困難だ。だから、他所からの者を、新しい風と受け止め歓迎してくれたのか。それとも、人は元来もてなす心を持っているのか。いや、そもそも、言葉に置き換える必要があるのか。

答えはいまでもわからない。ただ、30年を経て、改めて思う。バックバッカーであった2年半は、光と闇を見続けた日々だった。

容赦ない人間の残虐性、経済至上主義への懐疑、マスへの不信、対して人々の微笑み、底抜けの優しさ、自然の美しさ、子どもたちの目の輝き。

それは、紛れもなく自分の価値観の根底となり、今でも脈々と流れている。両者を内包して生きること。わたしの人生においての宝物だ。

だから、もう一度あの日々に戻ろう。

人の一生なんて、考えたら旅のようなものだ。旅は身軽に、モノは少なく。油断するとどんどん増えていくからね。それだけで身動きが取りづらくなる。

もちろん、当時のような放浪の旅を再び、という気持ちはもうないが、心だけはいつまでもバックパッカーであり続けたい。

今度は、あの笑顔の人々がわたしにくれた宝物を、別の形で次に渡していくために。




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