やり直す機会を奪う社会にならないために

まず書いておかなければならないことがある。
このnoteも然りだが、ツイッターやFacebook等では登録者が自分の好きなことを書いて良い場だと僕は思っている。
YouTube等の動画サイトだと自分の好きなことを「書いていい」というよりは「発信していい」という表現の方が当てはまるだろうか?
何故なら、そこには“表現の自由”があるからだ。
だが、“表現の自由”には必ずあるものが伴わなくてはならない。
あるもの、それは“責任”だ。
僕自身も“表現の自由”について「表現者の他者に対する思いやりや配慮があってこそ」という指摘を受けたことはあり、“表現の自由”ばかりを主張してそれに伴う“責任”を蔑ろにしてしまっていないか、気を付けなくてはならないなと思うことはよくある。
そして当たり前のことだが不特定多数の人が見ているnoteに書く文章の中で差別や誹謗中傷をすることは許されないし、ツイッターやYouTubeでもそれは同じだ。差別や誹謗中傷をやっておいて「感想のつもり」とか「冗談のつもり」では済まされない。
最悪の場合はアカウントが規制されても文句は言えないだろう。
また、SNSでも十分に気を付けて発信しなければならないわけだからテレビやラジオのような主要メディアで差別や誹謗中傷があれば問題になることは分かっていなければならないはずだ。
従って僕は決して擁護はしないつもりだ。
数多くのテレビ番組でMCを務めるお笑い芸人がラジオで働き口を失った女性に関して冗談のつもりで蔑視発言をしてしまったことを擁護するつもりはない。

……

「え~……」と思われた方も多いと思う。

彼がその失言をしてしまったのは1年前のことだし、彼はその件に関してきちんと謝罪もしているのだ。
それを今更蒸し返して何になると言うのか、そもそも有名人の過去の失敗をあげつらって「差別を許さない」という尤もらしいことを言って攻撃するのは“自分は悪くない症候群”の典型例だ。失敗しない人間等この世には存在しない。
失敗から学んでやり直すことを手伝うための建設的な批判ならば必要かも知れないが、炎上を煽ったりするようでは話にならない。

では何故擁護するつもりはないと書いたのかというと、これは決して彼を責めるために書いたわけではないということをご理解頂ければ幸いだ。
僕の中では『罪(……というのは大袈裟かもしれないけど……)を憎んで人を憎まず』で、失言してしまった“彼”を責めるのではなく“差別”だけを許さないようにしたいことと、『自戒の念』で自分自身が「感想のつもり」や「冗談のつもり」で差別や誹謗中傷をしないようにしていくためというのがあるのだ。

だから僕は彼の“失言”自体は決して擁護せず、且つ彼が失敗から学んでやり直す機会を奪ってしまうようなことがないよう、“彼”に対する私刑はしないつもりだ。

そして出来れば仕事を失ったりして経済的に困窮している人々への支援のために何をすべきかを考えて行動に移していきたい所だが、ふと気がつけば衆院選が近づいているようだ。

ならばまず自分に出来ることとして、経済的に困窮している人々への支援のための政策をきちんとやってくれそうな候補者への“投票”があるではないか。
もちろんその後のアプローチも必要にはなるだろうけど、まずは投票からやっていこう。

そしてそれ以外にも出来ることがあれば……と、困窮している人々のことを思うのであればそうなるだろうと僕は思うのだが、彼が失言をしてしまった時のSNS上の反応は残念ながら経済的に困窮している人々への支援のために何が出来るかというものや失敗から学んでやり直すことを手伝うための建設的な批判よりも炎上を煽る攻撃や誹謗中傷に近いものの方が多かったようだ。

そして何よりも驚かされたのは、彼がMCを務めるNHKの人気番組に対して彼の降板を迫るような署名が突きつけられていたことだ。
幸いNHKはこの件に関してはクレーマーを無視する覚悟を持ってくれたようでほっとしている。

正直に言うと感情的になってしまったことは僕もある。
だから彼の失言に対する怒りの声が出ることは分からないでもない。
だが、彼が失言したからと言って職を奪おうとしたり集団で私刑をやろうとするような連中に対しては全く共感出来なかった。
人の落ち度を見つけては攻撃の対象にしようと舌なめずりしながら近づき、炎上を煽ったり誹謗中傷を繰り返したり挙げ句の果てには仕事を奪ったり失敗から立ち直ってやり直す機会を奪うような行為は最悪の場合人を死に追い込むことだってあり得るのだ。

また、その後彼の失言の通りに、言わば経済的性奴隷のようなことをしなければならなくなった女性がいたことからもエセ正義を振りかざした攻撃や炎上煽りは経済的に困窮している女性にとって何の役にも立たなかったということは明白だろう。

経済的に困窮している人々にとって必要なのは“失言した彼に対する私刑”などではなく、“支援”だったというのに……

彼の失言から1年が経った今、僕等はそこから反省することが出来ているだろうか?

何か失敗した人がいるときに失敗から立ち直ってやり直す機会を奪わない社会を作れているだろうか?
その人の失敗が経済的に困窮している人々に関するものだった場合は失敗した人を責めるよりも経済的に困窮している人々への支援のために何をすべきかを考えることの方を優先出来ているだろうか?

僕自身もそうならないように気を付けなければならない所ではあるが、残念ながら今尚私刑をやろうとする人間はいるようだ。

五体不満足の作者である乙武洋匡さんはある失言をした有名人に対して私刑をやろうとする人間がいることに関してこう言っている。

【件の“人権軽視”発言を擁護するつもりは毛頭ありませんが、だからと言って集団リンチによる“私刑”が、他者に社会的な死をもたらす社会が健全だとは思えません。 失敗から学び、再出発できるチャンスを奪うことは、それこそが人を死に追いやりかねない構造をつくり出してしまうのではないでしょうか。】

完全に同意とはまさにこのことだった。

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