“親ガチャ”なんて言っている暇があるなら“環境ガチャ”を改善しろ

以前こちらで書いたこともあるが、虐待やネグレクトに遭ったりして今でもPTSDに苦しんでいるような人は「親ガチャに外れた」と思ってしまうこともあるだろう。
正直に言って僕はそういった人に何と声をかければいいのか分からない。
下手に声をかければ尚更傷つけてしまう恐れもあるし、PTSDに苦しんだ末に自殺というような可能性もあるから放置も危険だ。
その一方でやむを得ない事情があって両親が離婚したという子供に対して奇異の目を向けながら「不倫する親の所に生まれたとは、まさに親ガチャに外れたな。まあ、お前を見てれば親がろくでもない奴なのは分かるよ」とわざとらしく言ってその子の尊厳を踏みにじるようなことをすれば侮辱罪で捕まっても文句は言えないだろう。

上記はかなり極端な例を挙げているので、“親ガチャ”という言葉が子供の口から出てしまう例や“親ガチャ”という言葉自体の問題点がアバウトになってしまっている。
だから実際に子供に相対しておられる方の記事を読んで頂けると、それがより具体的に見えてくるのではないだろうか?

『子が家庭環境に不満を持って、言いたくなる気持ちはすごくわかる。自分は不運だ、恵まれないって思いたくなる気持ちもわかる。そう思ってたまに自分を慰めるのも悪いことだとは思いません。そうやって心を守らないとやっていられない時もあるでしょう。』
『でも、それ以上の効用は期待しないほうがいいのだろうと思います。この言葉を使ったところで状況はきっと改善しない。』
『(もちろん、虐待があるとか、明らかに犯罪クラスの問題点があるならば、もはやガチャ云々の問題ではないので、然るべきところに相談すべきです。)』

この記事を書いたささきめぐみさんはただ“親ガチャ”の問題点を指摘するだけではなく、その言葉をつい出してしまう子供の心にも寄り添い、真摯に教え子さんに向き合っておられるように感じた。
人間というのは必ずと言って良いほど他者と関わるものだと僕は思う。だからささきさんのこの姿勢は見習いたいものだ。

なのになぜ『“親ガチャ”なんて言っている暇があるなら……』と書いたのかと違和感を持たれる方も多いと思う。

なぜ僕がそう書いたかというと、まずささきさんのように「言いたくなる気持ちはすごくわかる」という子供の気持ちに寄り添う声を発して下さる方がいるのだと伝えることで辛い立場にいる方々に「突き放された」と思われないように配慮することが可能だと考えたからだ。

次に“親ガチャ”のように表に出しても不満の吐露以外には何のメリットもなく、むしろデメリットしかないような言葉であれば内心の自由に留めておくことが賢明であるにも関わらずネット上でやたらと出回っていることが気になったというのもある。
しかもこれはかなりの高確率で“親ガチャ”に外れていない(……と自ら言っているような)人が使っている。
中には“親ガチャ”を不満の吐露ではなく面白がって使っている者もいるようだし、“親ガチャ”の問題点を指摘する人に対して「そう言える人は自身の家庭に大した問題を抱えていなかった人だ」等とレッテル貼りや言いがかりまがいのことを平気で言ってしまうような者もいるようだ。
僕自身、この記事を書くために“親ガチャ”を使っているから自戒の念を込めておかなくてはならない。

最後の理由を話す前に、少し質問をさせて頂きたい。

皆さんは自分の親以外の人に会ったことがあるだろうか?

……絶句してしまっただろうか?申し訳ない。
「いいえ」等と答えたら大嘘つきか筋金入りの引きこもりだ。
答えが一択しかないような質問をするのはあまり適切ではなかったかもしれない。
人間は生きている以上、数え切れないほど多くの他者と関わることになるのだ。
そしてその他者から何らかの影響を受けることだってしばしばある。

大河ドラマ『麒麟がくる』の織田信長(染谷将太君)と『青天を衝け』の渋沢栄一(吉沢亮君)を例に考えてみよう。
ドラマの描写を見ると、信長は“親ガチャ”に外れ、栄一は大当たりを引き当てたように思える。
しかし結果的には2人とも大きな功績を残している。
信長の周りには最終的には本能寺の変を起こしたものの明智光秀(長谷川博己さん)のように信長の才能を開花させた人物がいた。
栄一も平岡円四郎(堤真一さん)と出会ったことで自らの理想とする世を作るための第1歩を踏み出すことが出来たのである。
だが、信長も栄一も大勢の味方に背中を押してもらった一方で大勢の敵に行く手を阻まれている。
敢えてガチャという言葉を使えば、“周りの人ガチャ”に関しては信長も栄一も当たり外れがあって、その内の当たりが大きかったために大きな功績を残すことが出来たのではないだろうか?

“周りの人ガチャ”が出れば必然的に“学校ガチャ”、“職場ガチャ”、“公共交通機関ガチャ”、“病院ガチャ”、“警察ガチャ”、“SNSガチャ”、“メディアガチャ”、“立法ガチャ”、“行政ガチャ”、“裁判所ガチャ”、“地域ガチャ”、“国ガチャ”等、様々なガチャも派生させられるだろう。

いくつものガチャがある中で親だけで子供の置かれる環境が決まるとは到底思えない。

虐待やネグレクトにしても親が悪いのはもちろんだが、虐待やネグレクトから子供を守るために警察が動き、児童相談所が動けば最悪の事態を防ぐことは出来るし、虐待やネグレクトに遭った子供のPTSDを少しでも軽減することにつながるということを考えると、親以外の外的要因が関連しているということになる。
不況によるリストラ等の経済的事情であれば明らかに親以外の外的要因の方が大きく影響していると考えるべきだろう。
外的要因を作るのは……そう。僕等1人1人だ。

子供が何か悪いことをしたときに「テレビアニメの影響だ」等と言って自身の子供に対する教育方法を省みないような親は親として無責任と言わざるを得ない。
従って子供に影響を与えるのは親だけではないという当たり前のことを考えようともせず、子供に何か問題が起きたときに全て親のせいにしてしまうような人間も社会の構成員として失格だろう。

「あいつ“親ガチャ”に外れたな」等と言う人間は自身も社会の構成員として失格な“外れガチャ”になってしまっているかもしれないという自覚を持つべきだ。

「自分は“親ガチャ”に外れた」と思っている方には、“親ガチャ”という言葉は不満の吐露意外には何のメリットもなく、ささきさんの言うように改善の効用はないということを理解して頂ければ幸いだ。

そう考えたとき、僕は“親ガチャ”という言葉を使うよりも子供の置かれている環境を少しでも良くするために出来ることを考えた方がいいと思ったのだ。

だから敢えてガチャという言葉を使うのであれば社会の構成員である僕等1人1人が形作る“環境”につけて、出来る限り子供にとって外れの出ない“環境ガチャ”を作っていかなければならないのではないかと考えている。

さて、未来を担う子供達が“環境ガチャ”に外れないようにまず何が出来るだろうか?

……え?僕がすぐに出来ることがあるって?
何々?“まず、文章がつまらないからもっと面白いことを書くように心がけて子供が楽しめる環境を作れ”って?

……失礼しました(汗)

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