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【オリジナル小説】『棺桶屋お市』 1

第1章 3人の女

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冬のニューヨークの朝は、染み渡る冷気と限りなく透明な朝陽で始まる。ただでさえ凍り付きそうな頬が、海から吹き付けてくる雪混じりの風で固く引き攣れるのが分かる。

スタッテン・アイランドのリッチモンド郡役所近くにあるセント・ジョージ・ターミナルの鉄骨の階段を、女はゆっくりと上がっていった。階段の塗装は剥げて錆び付いており、日陰でシャーベット状になった溶けかけの雪が黒革のロングブーツの足を掬おうとする。

革のビジネスバッグをしっかりと胸に抱えて一歩一歩階段を踏みしめていた女は、そこから続くエスカレーターに乗り、大きく息を吐いた。フェリー乗降場のフロアに着くと、海から舞い上がってきた風が彼女の癖のない黒髪を頭上に舞上げた。

聞き慣れた汽笛が3度鳴らされた。出港15分前を知らせるその音に吸い寄せられるように、着膨れた通勤客たちが集まってくる。女は揉みくちゃにされながらフェリーに乗り込んだ。毎年2,100万人を輸送するこの通勤用フェリーは、ニューヨークの地下鉄と同様24時間運航され、ラッシュ時には1時間に4本も発着している。

女は5人掛けベンチの端に座れた。全長310メートル、幅70メートル、構造上は4,400人と30台の車両を載せることができる船だが、この時間帯ではあっという間に満席になる。汽笛がもう一度鳴らされると、オレンジ色の鉄の塊は、ゆっくりと艀を離れていった。

観光客であればデッキに出て、海上に浮かぶ摩天楼の先端がゆっくりと姿を現す様を見て嬌声を上げるのだろうが、半年前から長期出張としてニューヨークを訪れて会社が契約したアパートメントから通勤している彼女にとっては、その光景も既にありふれたものになっていた。

谷崎陽子はニューヨークに本社を置く投資銀行の日本法人に勤めている。長い間低迷していた日本企業も、ここしばらく続いた円安の影響で息を吹き返し始めていた。特に商社の業績が急回復していて、欧米の投資家の注目を集めている。陽子はニューヨークを拠点とする大物投資家の商社に対する出資案件のプロジェクトメンバーとして、法律的な最後の詰めを行うために渡米していた。

長期にわたる長時間労働で陽子は疲れていたが、仕事は今日で終わるはずだった。残っていた連邦法上の問題も解決し、必要な書類も全て揃っていた。両者の調印は間近であり、彼女も明日早朝のフライトで帰国することになっている。半年ぶりに日本に帰れると思うと、自ずと微笑みが浮かんだ。

手袋を取って、ビジネスバッグのサイドポケットに仕舞っておいたスマートフォンを取り出す。ロックを解除してメールアプリを起動し、緑色のフラグが付いたメッセージを開いた。日付は3日前のものだ。

約束通り勝った。怪我もないです。
俺は大丈夫だから、姉貴も身体には気を付けて、仕事頑張れ!

弟の健二からのものだった。黒帯の空手の道着を着てトロフィーを抱えた大柄な少年の写真が添付されている。隣でにこやかに微笑んでいる外国人選手たちとは対照的に無愛想な顔が印象的だ。

「優勝したんだから、もうちょっと嬉しそうな顔しろ」

陽子は苦笑しつつ日本語で呟いた。

弟の健二はまだ高校生だ。両親を亡くしたあと、この10歳年下の弟の親代わりを決意して10年が経とうとしていた。二親を亡くして育ったせいか、幼いころから何かと問題を起こし、陽子はよく迷惑をかけた教師や父兄に頭を下げたものだった。その健二も来月には無事卒業することになっていて、陽子も帰国後卒業式に出席するつもりでいた。

「彼氏ですか」

突然英語で話しかけられて、陽子は思わず立ち上がった。

「ああ、驚かせてごめんなさい。この服はカラテかな。ジュードーかな」

隣に座っていたシルバーフレームの眼鏡を掛けたアジア系の男が、頭を下げながら言った。英国訛りの米語。骨張った広い顎とクルミのような愛嬌のある瞳が特徴的だ。

「キムさん、びっくりさせないでくださいよ」

陽子はベンチに座り直した。彼の名はケビン。ケビン・キムという英語名を持つ韓国系のエンジニアだ。ニューヨーク本社に2年ほど前から勤めていて、かなり優秀なエンジニアだと聞いたが、部署が違うので会えば挨拶をするくらいで、あまり親しく話をしたことはない。

「ごめんなさい、声をかけようと思ったんだけど、真剣にスマホ見てたから声かけ損ねたんだ」

「これ、弟なんです。まだ高校生。なんだか大きな空手の大会で優勝したみたいで、メールで報告してくれたの」

フェリーは次第にマンハッタンに近付き、窓からロウアー・マンハッタンのビル群やブルックリンの街並みが見え始めていた。進行方向の左手を、自由の女神が船と擦れ違おうとしていた。

耳をつんざく轟音と共に、船が大きく持ち上がったのはその時だった。

黒い煙とオレンジの炎が船の下部から吹き上げてくるのが見えた。薬品のような刺激臭が漂い、白い煙があっという間に辺りに満ちて陽子は噎せた。煙が沁みて目を開けることが出来ない。

船の真ん中がゆっくりと沈み込んできた。船尾が大きく持ち上がるのが身体で感じられた。船尾近くに座っていた乗客たちが陽子の方に降ってくる。ケビンが陽子を庇うように覆い被さってくれたが、その上を船の備品が降り注いでくる。乗客たちは悲鳴を上げながら、その備品と共に海に放り出された。

陽子たちの目の前に海水が満ちてきた。ケビンと共にデッキを滑り落ち、冷たい海中に落下した陽子は、濃い潮水を呑み込んでしまった。なんとか海面に浮かび上がろうと藻掻いたところに、再び大音響と共に強烈な衝撃波が彼女を襲った。

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