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【オリジナル小説】『棺桶屋お市』 2

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ケニアの首都ナイロビで武装集団が商業施設を占拠し、人質を取って立て籠もったのは、3日前のことだ。

犯行声明を出したのは、ソマリアの国際武装組織アルカイダ系イスラム過激派アルシャバーブだった。ソマリア南部を中心に活動するイスラム勢力で、ソマリア暫定連邦政府とそれを支援するエチオピア、アメリカ合衆国、アフリカ連合などと対立しており、近年その支配力が拡大してきていると言われている。

政府は即日軍隊を投入し、制圧にあたって犯行グループのうち5人を殺害、10人あまりを逮捕したが、結果として50人を越える死亡者と200人あまりの負傷者を出した。犠牲者のほとんどがショッピングモールで買い物を楽しんでいた観光客で、外国人も多く含まれていた。その中には日本人も3人含まれていた。

若宮市子は、このテロ事件で犠牲になった3人の日本人の遺体を日本に送還する手続きをするためにナイロビの北西にある軍事基地内の医療施設に来ていた。

ケニア人の身長は日本人よりも10センチは高いと言われているが、市子が基地内の施設を大股に歩いていると、軍人の男たちと比べても見劣りしない。

男たちがすれ違いざまに彼女を振り返った。明るい茶色の髪は柔らかくウェーブし、前髪は額の前まで垂らして切り下げ、後ろ髪は襟足あたりで切り揃えられている。一見華奢に見えるが、そのきびきびとした立ち居振る舞いからしても、強靱な筋肉がその細身の身体を包んでいることが窺えた。

遺体の安置所は、基地の南にある軍用病院の地下にあった。市子よりも少し背の高いケニア人の軍医が、IDカードを扉の横にあるカードリーダーに翳してからテンキーに触れ、パスワードを入力した。

空気が抜けるような音がして自動ドアが開き、市子たちは安置所の中に入った。アルコールとホルマリンが混じった独特の刺激臭と微かに腐敗臭がした。

壁に埋め込まれたスチール製の引き出しを軍医が手前に引いて遺体の1つを取り出した。引き出しはそのままキャスターが付いたストレッチャーに載るようになっており、軍医はそれを市子の前まで押して来た。非透過性のボディバッグのジッパーを開く。

遺体が空気に触れると同時に、死臭が辺りに拡がった。

医療用のマスクと薄いゴム手袋を着けただけの市子は軍医を脇に押しやると、ジッパーを遺体の足先まで下ろして遺体の保存状況を精査していく。時折手に持ったタブレット端末に何かしら入力し、音声でメモを残す。

「左腰と臀部に擦過傷、左脇腹に裂傷。肋骨が露出。四肢や臓器の欠損は無し。防腐処理が不十分ね。再度エンバーミングが必要」

エンバーミングとは、死体に施す防腐処理のことだ。防腐処理は医師ではなく現地の業者によって行われるが、日本で行われるものに比べると不十分であることが多い。防腐処理が不十分だと、遺体が日本に戻ってくる頃には腐り果ててしまう。

市子が全ての遺体を検分するのに、2時間半かかった。

マスクとゴム手袋を外して医療廃棄物用のダストボックスに放り込む。市子がタブレット端末で指示した内容は、現地の葬儀社に送付され処理される。その後、遺体は日本へ貨物扱いで送られることになる。

市子は再び遺体がロッカーに収められたのを確認して、軍医と共に安置所を出た。本来であれば遺体の処理から日本までの搬送を一貫してやりたいのだが、価格に折り合いが付かず、結局遺族は現地の葬儀社による作業を選んだ。

軍の施設からナイロビ市内のホテルまでは、日本製のミニワゴンを改造した送迎車が出ていた。エアコンは壊れていた。

ケニアは赤道直下の国で、標高が高いため二月のナイロビは比較的過ごしやすいとは言われるが、日中の最高気温は摂氏三十度を超えるので、日本の感覚で言えば十分に暑い。

市子は基地内で着ていた白衣を脱ぎ、白いタンクトップ姿になった。隣に居合わせたケニア人の兵士たちが、市子の鍛え抜かれた上半身から目を離せないでいる。

ナイロビ市街の北西側に入ったところで市子は車を降りた。南東に向かって延びているモワ・アベニューを西に折れ、ナイロビ川方面に拡がるダウンタウンまで徒歩で向かう。

裏口からホテルに入ったとき、時刻は午後7時を回ろうとしていた。

後ろ手にドアを閉めた市子は、短い英語の会話を耳にした。フロントに座っているケニア人の老主人と誰かが話をしているようだ。

フロントを横切る際に白いヒジャブで頭部を覆った若い女が主人と話しているのが見えた。白人。宿の主人と交わした英語に微かに北アイルランドの訛りを市子は聴き取っていた。

この辺りはイスラム教徒も多いのでヒジャブを着た女性自体は珍しくはないが、ほぼ完璧なキングスイングリッシュを話す白人の若い娘がこの界隈にいるのは、いささか不自然だった。

フロントから上階に繋がる螺旋階段を3階まで上がって、横に拡がる廊下の突き当たりにあたる部屋の前に立った市子は、ドアの左下に貼り付けてあった髪の毛がそのままになっていることを確認してから部屋に入った。

ジーンズとコットンの上着を脱いでベッドの上に置き、タンクトップと下着は剥き出しのクローゼットにぶら下げてあったビニール袋に押し込んで浴室に入った。

浴室とは言っても、プラスチックのパイプにビニール製のシャワーカーテンをぶら下げ、蛇口の下に金盥を置いただけの粗末なものだ。

栓を捻ると、蛇口からぽたぽたと水が滴った。

水が洗面器の半分ほどまで溜まると、市子は壁に掛けてあったタオルを浸して、手早く身体を拭った。ケニアも他のアフリカ諸国と同じく水は貴重だ。市子は1リットルもあれば十分入浴を済ませることが出来る。

クローゼットに置いてあった旅行鞄から新しい下着を取り出して身に着け、冷えていない冷蔵庫からラベルに象のイラストが描かれたビール瓶を取り出した。

冷蔵庫の横に固定されている栓抜きで王冠を抜くと、強い炭酸が溢れ出てきた。生ぬるいビールを顔を顰めながら飲み干す。

空き瓶をブリキ缶のゴミ箱に放り込んだ市子は、しばらくそのままベッドの上で胡座をかき、鋭い視線を窓の外に投げかけて考え込んでいたが、ふいに立ち上がるとジーンズを履いて上着に袖を通した。

ベッドのマットを持ち上げてその下に隠してあった小さな木箱を取り出してマットを元に戻し、中にあるものをベッドの上にぶちまける。

銃と弾丸、20センチほどの長さのナイフが無造作に転がった。

銃は口径9ミリ、銃身長が11センチあまりのSIG SAUER P228、弾は9ミリパラベラム弾。ナイフはガーバーのメトリウス。ガットフックが付いた狩猟において獲物を解体する際に皮や腱を切断するために使用されるナイフだ。

右腰に抜き撃ち用に作られたP228専用ホルスターを着け、銃を納める。ナイフはベルトループ付きのナイロンシースに納めて背中の下部に隠した。

左手首のオメガシーマスターダイバーを覗く。時刻は午後9時を回っていた。

市子は銃とナイフ以外の荷物を元に戻して部屋を出た。

螺旋階段まで歩き、気配を伺ってから4階に上がる。4階には客室はなく、物置とホテル従業員専用の部屋があることは確認済みだった。

市子は階段のところで片膝を突いてしゃがみ込んだ。眼を瞑ってそのまま自分の気配を消し、じっと待つ。

30分ほどして、階段の下に人の気配がした。下を覗き込む。

2階のフロアから人が出てきて階段を降りようとしている。白いヒジャブに覆われた頭が1階に向かって降りていくのが見えた。さっき主人と話をしていた女だった。

市子は女が階段を降りきったのを見計らってから動いた。

市子が1階に降りたとき、ホテル正面の扉がちょうど閉まったところで、その脇の曇りガラスの窓を女の影が横切るのが見えた。

フロントには大きな鈴が置かれているだけで、ホテルの主人の姿は見えない。市子は扉のところで一度立ち止まってから扉を開いた。

ホテルの前の道路はタクシーが辛うじて通れるかどうかという広さだった。道に沿って立つ街灯の半分は電球が割れて消えている。市子は女の後を追った。

線路を越えて左手に拡がる広大なゴルフ場を見ながら北上すると、ケニヤッタ地区に入る。昼間であれば露天が軒を並べる地域だが、この時刻では畳まれた店に人影は無い。白いヒジャブの女は細い路地を抜けてムバガシ通りに出たようだ。

市子の前に、黒い影がいくつか現れ、行く手を遮った。

市子は軽く舌打ちをした。南アフリカのヨハネスブルグに次いで、世界で2番目に治安が悪いなどと言われているこのナイロビで、この時間に女が1人で街を歩くのは確かに危険だった。

影は3つ。右手に金属バットを握り締めている男がひとり。もうひとりは手斧を持っている。3人目の男が持つナイフの刃が、点滅する街灯の灯りを映して煌めいた。

男たちが無造作に近付こうとした瞬間、市子は後ろに下がらずに、むしろ男たちに向かって間合いを詰めた。

予想外の動きに一瞬狼狽した斧を持った男の股間に市子の右足の爪先がめり込んだ。睾丸を潰された男は斧を落とし、股間を押さえてその場に蹲った。

金属バットを両手で握った男が大きく振りかぶってきたのに対して、ナイフを持った男がバットを持った男の後ろになるように身体の位置を変えつつ、振り下ろされたバットに左手を添えるようにして捌く。

バットが地面に叩き付けられ、金属音と共に火花が散った。その時には既に市子の右の肘がバットを持った男のこめかみにめり込んでいた。

ナイフを構えていた男はバットを持った男の身体が邪魔になって市子を見失った。

再び市子の姿を目にしたときには、市子の左手に握られたハンティングナイフが男の喉を襲っていた。食道と気道を切り裂いた刃は動脈を避けて前縦靭帯から頸骨の椎間板を縫って脊髄に達した。

瞬く間に三人の男を倒した市子は走った。ムバガシ通りに出て、辺りを見渡す。人影は無い。市子はもう一度舌打ちをした。一か八か通りを北上して、ナイロビ病院がある交差点まで走った。

ナイロビバプティスト教会の向こう側の角を曲がる女の姿を、眼に捉えた。市子は歩みを緩めて教会前にあるバス停で一度立ち止まる。女は北西に向かう細い通りを、特にペースを変えることもなく歩いていく。

狭い路地から大通りに出た女は、通りを横切ってウッドランド通りに入って更に北上した。

住宅街の中を進む豆粒ほどの大きさになった女の姿を追う市子の視野に、先の尖った白いミナレットが入ってきた。ハーリンガム・モスクだ。女はそこを左に折れて姿を消した。

市子は直接モスクに向かうことを避け、ひとつ手前の通りを左に折れた。

大きく回り込んで住宅街を抜けてモスクの裏庭へ近付いていく。鉄柵を乗り越えてモスクの裏庭に入り、姿勢を低くする。闇が自分の身体に馴染むのを待つ。

10分ほどして市子は移動を始めた。灌木の陰に隠れながら、モスクへ向かう。

首の後ろに激痛を感じると同時に、庭の中央に向かって身体が大きく吹き飛ばされた。

転がりながら灌木の陰に隠れてから敷地の外に向かって走った市子の右脇腹に、抉られるような痛みが走るのと、1発目の銃声が耳に届いたのとがほぼ同時だった。2発目の銃声が聞こえたときには、市子は鉄柵をかろうじて乗り越えていた。

市子の眼は、ミナレットの上部にある鐘楼に、長い銃身を構えたあの女が立っているのを捉えた。街灯に照らされた青白い肌と薄い唇のその朱さが、暗転した市子の眼の奥底に焼き付けられた。

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