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睡眠についての駄論

夜中に帰ってきて、風呂にも入らずベッドに沈む。

体力は上着といっしょに脱ぎ去った、気力は下着といっしょに洗濯機の中。

わたしは眠気に逆らわないようにしている。何世紀、何世代が続いても、人間には殺すことが出来ないためだ。

不死を相手に、無駄弾をぶっ放すナイスガイはいない。
「仕留められる」、その幻想に向かってのみ銃口は向けられる。

目が覚めたら午前2時。

5時間寝たのに、まだねむい。

こういうことはよくある。睡眠時間=睡眠の質ではないということ。
休日をすべて夢に費やしても、平日の転寝に劣る。

夕飯は食べていない。もちろん空腹。

でも

二度寝に入ればそんなの気にならなくなり、朝まで誰にも邪魔されずに夢の中に潜っていられる。

わたしは睡眠を万能薬のように薦めるが、それを休息の意味でとっていない。

睡眠とは夢をみることであり、夢を見ることは解離すること。

生きている人というのは、
肉体と意識の二つで構成されている。

この二つは現実という鎖で拘束されている。そう思う。
そしてこの鎖は、逃れられないものだ。

飼い犬はリードによって野生の犬と区別され、ペットとしての現実を過ごせざるを得ない。
足枷をつながれた囚人は市民と生活を区別され、収監者としての現実を過ごせざるを得ない。
本人達がどう思っていても、与えられたものが肉体の生活場所になる。

“鎖は自由を奪うためではなく、現実を与えるための道具となる”

不自由な生活はさぞ不快だろう。
どこにでも行動できて、何でも手に入れられる生活では、人は自由なことをどんどん求めてしまう。だから鎖から解き放たれようとする。

そうして足掻いた結果どうなる。

何も変わらない。

いくら思案しても、肉体と意識が結びついているかぎり人は自由になれない。肉体に快を与える生活も、意識に負担を与えない日々も、手に入れたところでそこに縛られる。むしろ求めていく。

犬はリードを解きたいのではなく、野生として縛られたい。
囚人は重りを外したいのではなく、市民として縛られたい。

逆説的に自由になりたいことは、自らを鎖に繋ぎたい欲求のことだ。

やはりそう思っても、睡眠に陥りたい。

これは夢に縛られたがっていることになる。
実際には不可能に近いことだ。

夢の中に意識を置いても、もし肉体を伴うことができるのならば、それは現実になり得る。夢は非現実の王国ではなくなる。
だがどうやって、ベッドに横たわった息づく死体を夢へと持ち込めるだろう。

そう考えたときに人は思案してしまう。
肉体というものが邪魔だ、鎖に縛られるのはこのせいだ。

こうして意識は肉体を捨てはじめ、残されたのは肉体と拘束具。
解放されたという幻想に、快感を得るほかない。
そうして自由を求めてしまう。

ハッと夢から覚めたときに思い知らされる。
意識も現実につながれていることに。

何も変わらない。

結局、生きることは鎖に縛られ続けることであり、逃れることは出来ない。
人は日々突きつけられている、それは寝ても覚めても。
肉体と意識どちらも解放されるには、現実を断ち切ることでしか不可能だ。

これがわたしにとって解離である、睡眠体験だ。
現実を忘れ、肉体と意識を解離し、すこしの解放によって現実の不条理を再認識する。

薬はたまに飲むから効果があるのだ。


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