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この世は誰かが負けてくれるから成り立っている

最近起きたとある事件(詳細はあえて書きません)で逮捕された人が一度の失敗を「人生の終わり」のように捉えていたことを見て、ちょっと思うところがありましたので書きたいと思います。

これはあくまで私の推測にすぎませんが、もしかしたら事件を起こした人は負けず嫌いな性格で完璧主義なところがあったのかもしれません。

負けず嫌いな性格や完璧主義自体は決して悪いことではなく、世の中で優れた業績を上げている人の多くも負けず嫌いであったりします。事件を起こした人も今までの人生において他人よりも相当な努力をしており、実際に他人よりも優れた結果を残しています。

しかし負けず嫌いが行き過ぎてしまうと、どこかで「負ける自分」を受け入れることができなくなり、心が折れてしまう可能性もあります。

一方で世の中には、別に負けてもいいや、どうせ負けるから頑張らなくていいや、という人もいます。このような「最初から勝つために頑張ろうという意志がない」という人を「負け犬根性」として否定的に捉えることも多いかと思います。

例えば、チームのみんなが大会に勝つために猛練習しているのに、「負けてもいいや」という人が一人でもいるとチーム全体の士気に関わります。企業でも上司が「今期の目標を達成しよう!」と言っているのに部下が「どうせ無理だよ」と思っているといつまでも業績は上がりません。

「負け犬根性」は確かにマイナスの部分が大きいのですが、例の事件を見てそうとも言い切れないと思うようになりました。

あくまで空想の話ですが、もし誰もが100%の負けず嫌いだとしたら、世の中になればどうなるのか考えてみます。

誰もが勝者を目指して努力しているうちは世の中に活気がありますが、残念ながら全員が勝者にはなれず、どこかで必ず敗者が生まれます。

しかし、極度の負けず嫌いの場合、敗北を受け入れるのかなり難しいことです。強靭なメンタルがあれば敗北を糧に更に強くなることもありますが、そうでない場合は潰れてしまう恐れがあります。

もし世の中が敗北を受け入れることができない人ばかりだと、敗者が出るたびに暴発する人が出て大変なことになってしまいます。

そう考えると、負け犬根性の人は確かに勝者にはなれないものの、敗者の役を引き受けてくれるという意味で社会に必要な存在かもしれません。
(敗者をどうするかという課題は政治家が考えることだと思いますが)

「負けず嫌い」も「負け犬根性」もそれぞれ良し悪しはあり、個性の一つに過ぎないと思います。また、一人の人間の中にも負けず嫌いの部分と負け犬根性の部分が共存していると思います。

自分や他人の「負け犬根性」に対して嫌悪感を感じることもあるかと思いますが、どんなに強い人でも長い人生の中においてどこかで敗者になることはありますので、時には「今は負けてもいいや」「今は頑張らなくてもいいや」という弱さがあってもいいのかもしれません。

努力して勝利を目指す生き方も素晴らしいと思いますが、そうでない生き方も認めてあげてもいいと思いました。

今回もお読みいただきありがとうございました。


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