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「優しさ」を辿ったら、1300年の時を超えて藤井風と山上憶良が繋がった。

優しさとは、何か。

以前、哲学の講義を受けているときにこのテーマについて2ヶ月考えたことがあった。当時のノートを開くと、定義をすることに苦しんでいる様子がわかる。

ノートに並んだキーワードが、こちら。

利他
大切なもの
相手の大切なものを大切にする心
相手の大切なものの尊重
相手と矛盾がない
やらなくてもいいのに思わずやってしまう
義務ではない
ありがた迷惑でもない
アメでもなく、甘えでもない

結局、言葉ではうまく説明ができなかった。

しかし、体感として「優しさ」を理解しているつもりではある。

これまで触れてきた「優しさ」に大きいも小さいもなくて、
どれも「有難い」「嬉しい」ものだとは思うものの、
人生の中で印象に残っている「優しさ」というのは、「有難い」以上にもっと複雑な感情で成り立っているように思う。

それは、いい思い出かと問われると、ちょっと答えに詰まるかもしれない。

なぜなら、相手の優しさが深いものであればあるほど、自分の至らなさや小ささに気づかされ、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚になるからだ。

感謝や嬉しさよりも先に湧き上がる、至らなくて申し訳ない気持ち

こんなことを考えていると、

優しさとは、相手を思いやる気持ちである
優しさとは、愛の形である

みたいなシンプルな表現だけでは、説明しきれないような気がする。

あれからしばらく時が経ち、
すっかり優しさの定義など考えることもなくなったある日のこと。

偶然、「優しい」の古語について書かれている本と出会う。

やさしいの古語は「やさし」
そのもととなったことばは「やす(痩す)」、現代語の「やせる」です

ひらがなでよめばわかる日本語 (著)中西進

・・・ん?
優しいの古語が、「痩せる」??

「優しい」と「痩せる」が同じ意味を持つということ?
それはちょっと、強引すぎやしないか。

と、思ったのだけど・・・
次の説明を読み、なんだか不思議と腑に落ちた。

相手に対して、自分が痩せるような思いをすること、それを「やさしい」というのです

ひらがなでよめばわかる日本語 (著)中西進

おぉ。そう言うことかーーー。

あの「自分の至らなさに胸がぎゅっとする思い」は、確かに「痩せるような思い」と言い換えられるかもしれない。

奈良時代初期の貴族であり歌人でもあった、山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に次のようなものがある。

世間(よのなか)を 憂(う)しとやさしと 思へども
飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

(訳)
世の中をつらい、恥ずかしいと思うのだが、飛び立ちのがれることはできない、鳥ではないので

『万葉集』より

この歌は、貧しき民の現状をつぶさに訴えたあとに詠んだとされるもの。
確かに、現代の「やさしい」とは意味が異なっている。
何もできない自分自身の情けなさ、至らなさのような気持ちも、詰まっているように思える。

さらに、古語辞典で「やさし」を調べる。

身も細るほどだ。つらい。肩身が狭い。消え入りたい。たえがたい。
気恥ずかしい。きまりが悪い。

全研全訳古語辞典より

かつての「やさし」は、
人格が優れていたり地位が高い人を相手にしたときに湧き上がる、なんだか肩身が狭くて、恥ずかしくて、気が引けて、身の細る思いのことを指していたそうだ。

実に、興味深い。

現代の「やさしい」のベクトルは、優しい行為を行なった「相手」に向くが、
かつての「やさし」のベクトルは、やさしと感じた「自分」に向いている。

「自分」に向くベクトルの感覚は、現代に生きるわたしにも理解できる。

相手への尊敬・感謝もあるけれど、それ以上に、自分自身の至らなさを感じてしまう(=自分にベクトルが向いている)。よく分かる。

つまり、

優しさとは、恥ずかしさ

とも、言えるのかもしれない。

ん?
あれ? 

このフレーズ、どこかで聞いたことがあるぞ。

そうか、藤井風の「優しさ」という曲の歌詞だ。

ちっぽけで からっぽで 何にも持ってない
優しさに 触れるたび わたしは恥ずかしい

藤井風「優しさ」

歌詞を改めて眺めると、
まさに、古語の「やさし」とリンクする。

優しさに触れた時の、自分の内側の感覚が見事に言葉になっている。
この曲、すごいな。

奈良時代の歌人 山上憶良と、令和時代の歌手 藤井風が、
1300年の時を経てリンクした瞬間

わたしの中での「優しさとは何か」の方向性が、ぼんやりと見えた。

優しさに触れることは、「自分への問いかけ」。
相手への感謝・尊敬と同時に、自分自身の心や態度を謙虚に問い直すこと。

誰かの優しさに触れるたびに謙虚になり、
自分は、目の前の相手の「優しさ」に応えられる人間であるだろうか?
と自分自身に問い正す。
そして今度は、別の誰かに優しさを差し出す側になる。

そんなことを繰り返していたら、
きっと世界は「優しさ」に溢れるだろう。

そんな世界を目指したい。
優しさの循環を生み出せるような人間でありたい。

ここまで書いて、ふと気がつく。

わたしは、「優しさ」というものを
行為する側の立場ではなく、受け取る側の立場で
捉えたかったんだ。

まさか、奈良時代と令和時代の歌い手が紡ぐ言葉から、
こんな気づきをいただけるなんて思わなかった!

ありがとう。
山上憶良と藤井風。

「優しさを感じ取ること」をこれからも大切にしていきます。

= お わ り =


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