「優しさ」を辿ったら、1300年の時を超えて藤井風と山上憶良が繋がった。
優しさとは、何か。
以前、哲学の講義を受けているときにこのテーマについて2ヶ月考えたことがあった。当時のノートを開くと、定義をすることに苦しんでいる様子がわかる。
ノートに並んだキーワードが、こちら。
結局、言葉ではうまく説明ができなかった。
しかし、体感として「優しさ」を理解しているつもりではある。
これまで触れてきた「優しさ」に大きいも小さいもなくて、
どれも「有難い」「嬉しい」ものだとは思うものの、
人生の中で印象に残っている「優しさ」というのは、「有難い」以上にもっと複雑な感情で成り立っているように思う。
それは、いい思い出かと問われると、ちょっと答えに詰まるかもしれない。
なぜなら、相手の優しさが深いものであればあるほど、自分の至らなさや小ささに気づかされ、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚になるからだ。
感謝や嬉しさよりも先に湧き上がる、至らなくて申し訳ない気持ち。
こんなことを考えていると、
みたいなシンプルな表現だけでは、説明しきれないような気がする。
*
あれからしばらく時が経ち、
すっかり優しさの定義など考えることもなくなったある日のこと。
偶然、「優しい」の古語について書かれている本と出会う。
・・・ん?
優しいの古語が、「痩せる」??
「優しい」と「痩せる」が同じ意味を持つということ?
それはちょっと、強引すぎやしないか。
と、思ったのだけど・・・
次の説明を読み、なんだか不思議と腑に落ちた。
おぉ。そう言うことかーーー。
あの「自分の至らなさに胸がぎゅっとする思い」は、確かに「痩せるような思い」と言い換えられるかもしれない。
奈良時代初期の貴族であり歌人でもあった、山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に次のようなものがある。
この歌は、貧しき民の現状をつぶさに訴えたあとに詠んだとされるもの。
確かに、現代の「やさしい」とは意味が異なっている。
何もできない自分自身の情けなさ、至らなさのような気持ちも、詰まっているように思える。
さらに、古語辞典で「やさし」を調べる。
かつての「やさし」は、
人格が優れていたり地位が高い人を相手にしたときに湧き上がる、なんだか肩身が狭くて、恥ずかしくて、気が引けて、身の細る思いのことを指していたそうだ。
実に、興味深い。
現代の「やさしい」のベクトルは、優しい行為を行なった「相手」に向くが、
かつての「やさし」のベクトルは、やさしと感じた「自分」に向いている。
「自分」に向くベクトルの感覚は、現代に生きるわたしにも理解できる。
相手への尊敬・感謝もあるけれど、それ以上に、自分自身の至らなさを感じてしまう(=自分にベクトルが向いている)。よく分かる。
つまり、
とも、言えるのかもしれない。
ん?
あれ?
このフレーズ、どこかで聞いたことがあるぞ。
そうか、藤井風の「優しさ」という曲の歌詞だ。
歌詞を改めて眺めると、
まさに、古語の「やさし」とリンクする。
優しさに触れた時の、自分の内側の感覚が見事に言葉になっている。
この曲、すごいな。
奈良時代の歌人 山上憶良と、令和時代の歌手 藤井風が、
1300年の時を経てリンクした瞬間
わたしの中での「優しさとは何か」の方向性が、ぼんやりと見えた。
誰かの優しさに触れるたびに謙虚になり、
自分は、目の前の相手の「優しさ」に応えられる人間であるだろうか?
と自分自身に問い正す。
そして今度は、別の誰かに優しさを差し出す側になる。
そんなことを繰り返していたら、
きっと世界は「優しさ」に溢れるだろう。
そんな世界を目指したい。
優しさの循環を生み出せるような人間でありたい。
*
ここまで書いて、ふと気がつく。
わたしは、「優しさ」というものを
行為する側の立場ではなく、受け取る側の立場で
捉えたかったんだ。
まさか、奈良時代と令和時代の歌い手が紡ぐ言葉から、
こんな気づきをいただけるなんて思わなかった!
ありがとう。
山上憶良と藤井風。
「優しさを感じ取ること」をこれからも大切にしていきます。
= お わ り =
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?