ロンドンでパンを焼く
朝、気づけば私はパンをこねていた。
ベッドで目覚めたときにはまだ迷っていたのに、気づけば私は朝の薄暗いキッチンに立ち、せっせとパン生地をこねていた。かれこれ3日もこんな調子である。
私がロンドンへやって来て一ヶ月半が経とうとしていた。まだ収入もなく、節約生活を送っていた私は、日々の小さな刺激に鈍くなってきていた。
揺蕩う意識にピンを刺し標本にするかのようにペンをとるか、ちょっとメランコリックで古めかしい音楽を聴くか、それらに飽きて行く当てもなく散歩に出掛け、ベンチで途方に暮れるかの日々。
誰かと話して安心したいが、ひとまず手紙は書ける人には皆書いてしまったし、電話も掛けられる人には皆掛けてしまった。
字面は牧歌的だが、かなり以前から心の調子が振るわなかった私は、いつも将来への不安を紛らわすのに一生懸命で、むしろこの他のことには向き合えなかった。憂鬱の波は一日に何度もやってきて、その瞬間には元気でも30分後がどうかなんてわからなかった。
私の一日の楽しみは料理と食事になりかけていた。それほど食欲もなかったし、節約したいのもあって一日一食と決めていたけれど、それでも私にとっては一日のうちで最も刺激的な営みで、不安を忘れさせてくれるひとときだった。
料理だけは、毎日イメージと違うことばかりで「明日はここを改善してみよう」という明日への楽しみを私に持たせてくれていた。だから食材にはほどほどにこだわっていた。
そんな中、日本から送ってもらった戸塚真弓さんの美食エッセイ『パリからのおいしい話』(中公文庫)を読んで触発された私は、冷蔵庫の奥底にグラス・フェッド・バター(牧草だけで育てた牛に由来するバター)を隠していたのを思い出し、ついにそれを味見してみたくなった。
一ヶ月に奮発したのだが、手が出せるほどの元気がなかったので、今までずっと手を出せずにいたのだ。
「よし、今日はパンを買おう!パンにあのバターと蜂蜜を塗って食べたい!」
実はロンドンへ来てまだ一度も食パンを買ったことがなかった。
繋げれば10メートルほどもありそうな、スーパーの長い食パンコーナーの前で少し困った私は、一応選ぶ前に母に電話してみることにした。ヨーロッパで主婦の経験がある母なら、選ぶときに気を付けるポイントなど何かしらヒントを持っているかもしれないと、素直にそう思った。
母:「……自分で焼いたら? その方が安いし材料もマトモだし。」
あとから思えば普通に母の言いそうな事ではあるが、普通にパンを買って帰る想定しかしていなかった私は驚いた。
私は自分でパンを作ったことがなかった。
でも、母の言葉を聞いた瞬間に私の心はもう決まっていた。ここで追いつかないのは私の頭の方だ。もう作る気でいる私の心をよそに「今日だけ安いの買って、作るのは次回からとか……」などと往生際の悪いことを数秒考えたあと、私の心がもう作る気でいるのを悟って、おとなしく従うことにした。
近所のスーパー4店舗を価格調査して、小麦粉とドライイーストをそれぞれ一番安いところで買い揃えた。小麦粉は普通のものと全粒粉が同じ価格だったので、「え、お得!」と迷わず全粒粉を。
そんな調子で、パンを買いに出かけた私はなぜだか小麦粉とイーストを下げて帰宅し、早速キッチンに立った。レシピは私の調達できる最低限の材料のものをクックパッドから採用した。
ところが、いざ材料を確認し計量しようとしたとき、私にはちょっとした困難が待ち受けていた。
私が想像していたようなキッチンスケールがなかったのである。ここにあったのは一風変わったスケールたちだった。
まずはこれ
1:スウェーデン製。壊れていて計量皿がない。最小単位は25gという大雑把さ。
次にこれ
2:イングランド製。oz表記。量れるのはわずか8oz(225g)までという繊細さ。
私は迷わず後者を選んだ。このかわいくて不便な量りを使ってみたかった。おまけにこちらの方がより正確に量れる。
おまけにといったが、実用性は道具を100%活かしたい私にとってはかなり大事なポイントだ。
純粋に「最善だから」使うのと、現実的な選択肢もある中で「ロマンがあるから」使うのとでは、少し意味合いが変わってきてしまう。往時の追体験への意識そのものが、体験を邪魔してロマンを半減させてしまうのだ。
これは私のneedsとwantsが一致した瞬間だった。
古道具を完全なる実用品として活かせる、世間一般には「不便」なキッチン環境にありがたみを感じていた。
材料は小麦粉、水、バター、砂糖、ドライイースト、塩だけ。
初めてのパン作りはそれなりに順調だった。慣れないせいで手間取り、第一次醗酵をさせている時間が長くなってしまったくらい。思っていたよりもずっと簡単だった。
そして、イースト菌たちとの時間は幸せだった。むくむくと膨らむパン生地の様子を眺めながら、私の楽しみもむくむくと膨らんでいった。
去年もバレンタインにショートブレッドを焼くなどしていたのに、なぜ私は今までパンを焼いたことがなかったろう。
それにしても、パンに塗るなどを想定して買ったグラフェッドバターを、まさかパンそのものを作るのに使うことになるとは思ってもみなかった。
自分でこねて、自分で焼いたパンは歪でかわいかった。先の過醗酵のせいでちょっぴり生焼けだったのもご愛嬌だった。
生まれて初めて、しかも思いつきで突然パンを生み出せたのがほんとうに不思議に感じられた。生焼けでも私にはじゅうぶん美味しかった。
少しだけ、私はこの味をずっと昔から知っていたような気がした。
思えばそれが新しい始まりだった。パン作りという未来志向の新しい研究テーマができて、私はすっかり楽しくなってしまった。明くる朝も、気づけば私はパンをこねていた。昨日から「明日は生焼けのリベンジをするんだ」と決めていた。
自分がとても慣れた手つきでパンをこねているのを見て、我(の手)ながら驚いた。きっと、人間の手に一番合ったこね方がそれであり、自然にそこへ行き着くのだ。
まるで自分がパン職人であるかのような錯覚を覚えた。そして、もうパン職人になってもいいかなとさえ思っていた。思い浮かべていたのはCupsのMVに出てくる厨房である。
この日、私は完成したパンをバッグに大事にしまって、いつものお気に入りの公園へ報告へ行った。
青々しい草の上に散らばる白い花たちを眺めながら、幸せなひとときを過ごした。お気に入りの水筒に汲んで持った水さえ、部屋で飲むよりも何倍も美味しく感じられた。出来合いのものを用意していくのと何が違うのだろう、長く関心を寄せ続けているからだろうか。
そして、ついに今朝もまた、気づけば私はパンをこねていた。別に毎日作るつもりなんてなかった。今朝目覚めた時だって、今日という一日が始まるのが憂鬱だった。それでも、私はいつのまにかキッチンにいた。
私を苦しめていた不安は何一つ変わらなかったけれど、パンを一生懸命こねる私には、もはやそんなことはどうでもよかった。
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