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夢の跡

 私は昨日も、お気に入りの公園のベンチで本を読もうと散歩へ出掛けた。

 でも、いつもの場所へ来たら、その日はちょっと雰囲気が違っていた。
草刈機の音がけたたましく鳴り響いていた。
緑の野の上に雲のように咲いていた白いヒナギクたちは跡形もなく消え去り、草刈機の通った跡は薄緑色の轍となるだけだった。刈られた草の匂いだけが、ツンと私の鼻腔に残った。
ああ、別に困っていたわけでもないのに。
昨日もここで花を摘んでいたのに。

 そういえば、ずっと似たような疑問があった。
なぜみんなは落ち葉を掃きたがるのだろうか。通り道でないところさえ。
なぜみんなは雑草をむしりたがるのだろうか。何かの作物がやられるわけでもないところまで。
私は落ち葉も雑草も好きだ。夏にアスファルトから草が生えているのだって、光るような緑が綺麗で爽やかだ。
 私は好きだし構わないからといって、自分の家だけ放っておけば良いというわけでもない。
放っておくと近所の人がついでにやってくれてしまうこともあるし、放っておいて溜まった落ち葉が風で隣家に飛ばされると、やはり隣家の人の仕事になってしまう。

 江戸時代に造園された寺の苔庭で、落ち葉を拾い、草をむしって過ごしていたことがある。そこでは、どうしても草むしりをしないと苔が枯れてしまうのだ。
私はその頃、毎日何時間も苔庭で過ごしていた。ずっと様々な考えを巡らせていても良い、私の好きな時間だった。ジャン=フランソワ・ミレーの≪落穂拾い≫に準えて「落ち葉拾い」と、安直ながら心のなかで親しみを持って呼んでいた。

 ずっと昔にどこかで読んだ本の中に、こんなようなことが書かれていた。
「人間が素手で草をむしることこそ、草との対等な向き合い方である。草刈機を使ってしまえば、それはもはや戦争なのだ。」
引き抜けなかったのなら、それは単に一人の生き物が、一株の生き物に負けたというだけのことである。怪我をしたとて、それは草の尊厳の為したことだ。
読んだのは小学生の頃だったはずだが、なぜだかずっと心に残っている。
花を摘むときにも、実を収穫するときにも、私はいつもそれを思い出す。

 それにしても、大人というのはつくづく難しい生き物だ。私と似たようなひとはなかなかいないようである。
そういえば、苔庭でずっと草をむしっていたのも5月のことだった。

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