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超自我よりもきっと世界は優しいから。

まるで、頭の中がスプレッドシートのようだ。

そう気づいたのはインターンをしていた2年前のこと。私の頭の中は毎日膨大な数のTO DOリストで埋めつくされていて。1つ1つの作業が完了する度、チェックマークを付けていく生活だった。

夜が明けると、その度にリセットされるTO DOリストをこなす1日が始まる。そして1つ1つにチェックマークを付けていく。

TO DOリストをこなさないこと、あるいはこなせないことは自分を嫌いになるのに十分すぎる理由で。全てをこなし切った日にだけ、自分を認めてあげられるような気持ちになれた。

そんな日々を過ごすうちにとうとう身体を壊した私は急激に落ちた体重と身体の変化から、少しの間だけ病院に通っていた時期がある。そこで先生に

“頭の中から少しずつ“~すべき”を取ってあげようね”

と諭された。

そう、私の頭の中には“~すべき”とか、“~しなければならない”があまりにも多すぎたのだ。

今でこそ、少しずつ自分を休めてあげる、とか、ベッドで1日寝転がる日があっても肯定できるようになってきたものの、やはり根は自分に厳しいのだと思う。

料理も文章を描くのも大好きで、1日にどちらかには必ず触れている。けれど、触れないと自分を嫌いになってしまう怖さがないか、と聞かれたらそれは絶対に噓になる。

1日に1つは文章を描かないと、と。朝3時に起きて何か料理を作らないと、と。何かに追われるような、駆り立てられるような気持ちになってしまう時が、ある。

さらに何が面倒かというと、私はそんな自分のストイックな面を人にさらけ出すことが苦手なのだ。

小学生の頃、友達と勉強をするのが苦手だった。

“何かに打ち込む自分の姿”を人に見せることが苦手で、一緒に勉強をする名目で集まっても、なんだか恥ずかしくてつい友達にちょっかいをかけてしまう厄介な人だった。

今でも、例えばオーナーが知り合いの店でパソコンを開いたり。家族の前でnoteを描いている姿を見せることはしない。

しないというより、できないのかもしれない。

そんな性格故に、反動のように1人になった時に人一倍自分に厳しく“あれもしなきゃ”“これもしなきゃ”と~すべき思考で自分を縛ってしまうのだと思う。

このように、「~すべきである」とか「~してはいけない」と自分自身を追い詰める思考を【超自我】という。

自分に厳しく接する自分、と言った感じで、心の番人役という例えが分かりやすいかもしれない。

“ほどほどに手を抜く”ことがなかなか難しい私は、幼い頃から、この超自我が強いような気がする。そして、恐らく私以外にもこの【超自我】が強く、つい自分に厳しくしてしまう方は多いのではないだろうか。

別に、厳しいこと自体は悪いことではない。

しかし、その厳しさを他の人に打ち明けられなかったり、1人で抱え込んでしまい苦しい気持ちになってしまうのであればそれは必須ではない厳しさ、なのかもしれない。

まだ自分は大丈夫。

そんな風に苦しい中でも、耐えられてしまう。

耐えすぎてしまう人が、実は大勢いるような気がしてならない。超自我が強すぎて心の番人のお叱りを受けてしまう人が大勢いるような気がしてならない。

そんな“超自我強め”一族の会員でもある私が、超自我が強くなりそうな時に少し意識していることは3つある。

1つ目は、敢えて自分を許すこと。
2つ目は、自分を少し甘やかすこと。
3つ目は、周囲に少し甘えてみること。

夜にお風呂に入る気力がない時、メイクだけ落として(もはやその気力すらない時はそれも許す)、潔くそのまま寝てしまう。

やろうと思っていた床掃除を明日に回してしまう。

これまでの私だったら、全てをその日のうちに済ませなければ自分を許せなかったけれど。

何度かお風呂に入れなかったり、家事を後回しにする中で体得した「明日の自分は意外と何とかしてくれる」という感覚。

その感覚を積み重ねて、「後からなんとかできる自分」の好きになるうち、好きな気持ちが出来ない自分を嫌う気持ちを上回ってくれるようになってきた。

嫌いになる自分をカバーできる力が自分にはあることは、自分を大きく許せる理由にもなってくれた。

出来ないことを、許す。
少しだけ超自我を緩められる。

2つ目は自分を少し甘やかす、ということ。

1つ目の「自分を許す」と少し似た表現ではあるが、ここは敢えて区別した。

前者が“出来なさを許す”の意だとすれば今回の自分を甘やかす、は“出来るけれど敢えてやらない”というニュアンスだ。

例えば、食事。

私は、時間をかけて丁寧に食事を作ることが好きだ。一方で、超超超雑に食事を作ることも好きだ。矛盾しているかもしれないが、自分の心の余裕と体力のキャパシティに見合った形で料理と向き合っている。

アルバイトを終えて、心身共に疲労困憊の時。

それでもきっと私は丁寧に時間をかけて料理が“出来てしまう”だろうけれど、面倒くさいし早くベッドでゴロゴロしたいし、という心を甘やかす。

浸水もしていない白米を鍋にぶち込んで炊き、サバの味噌煮缶やら卵やら梅干しやら塩昆布やら程よく味変できるアイテムで白米を掻きこむのだ。

誰も見ていないし、結局食べるのは自分。何なら雑な時の方が美味しかったりもするし。

大いに甘やかしてあげると、“休める時に休んでもいい”と休むべからずだったこれまでの“べき”がまた頭から1つ消えていく。

そして3つ目。

1番難しくて、
でも自分が想像するよりはきっと難しくないこと。

周囲に少し甘えてみる、ということ。

私はまだまだできない。

甘えて、期待した結果誰も助けてくれなかったら余計に傷つくから。期待したって、結局自分で自分を助けられなきゃ意味がないから。“まだまだ若いんだからもっと甘えていいんだよ”と言うくせに甘え方を教えてくれないから。

だから誰かを頼ること、
甘えることに臆病になっている。

だから、“少しだけ”甘えてみるのだ。

実家に行く時、母にLINEを入れる。
“次の土曜日に行くから、帰る時に卵焼き持って帰りたい”と。

すると帰りには卵焼き以外にも、煮物や酢の物など私の好きなおかずがてんこ盛りとなったリュックを背負って帰路についている。

そして、“食事なら、甘えてもいいから”と助け船をくれる。

“絶対に実家に甘えてはいけない”
“頼っちゃだめだ”

私を縛る超自我は
“食糧が尽きたら、実家に大いに甘えて頼ろう”
という考えに緩まってきている。

そして、番人も『よかろう』と
家族を頼る私を許してくれる。

そして、家族に限らず自分が想像する以上に。自分の中にある超自我よりも、世界は優しいんだと思う。
綺麗事かもしれないけれど、単に私がそれを信じたいだけなのかもしれないけれど、というか間違いなくそうなのだけれど。

でも、きっとそうだと思う。

弱音は吐いてはいけないと思っていたけれど、つい漏らしてしまった本音。死にたいわけじゃないけれど、生きるのが苦しいと言った私に「生きていたいと思ってくれてありがとう」と言ってくれた人がいた。

友人と会う約束をした日に、心が身体に追いつかなくて。少し休みたくて。けれど、約束は守らなければいけないという超自我が、私の体調を後回しにしようとしたけれど。勇気を出して、自分の心が弱ってしまっていることを伝えた。

「大丈夫だよ、また落ち着いたらいつでも行こうね。私からも連絡するね」と言ってくれた。“連絡してね”、ではなく“連絡するね”だったことが嬉しかった。

その瞬間の約束は守れなかったけれど、未来に繋がった約束が“無理な時は無理と言ってもいい”と超自我をはねのけてくれた。

ペンが必要な場面で、持参したペンのインクが思いがけず切れてしまった時。

物を借りるのはいけない、と思い少し悩みながらもペンを貸して欲しいことを周囲に告げると「何本でもあるからいつでも言って!」と3本も貸してくれたこと。

自分が想像するよりも。
自分の頭と心の中に存在する超自我よりも。

もしかすると、世界は優しいのかもしれない。

いつだって整然と管理されていた私の頭の中のスプレッドシートから、少しずつ項目が消え。

チェックのつかない項目があっても、明日に回せたり、他の人に“これ出来る?”と尋ねられたり。

私のスプレッドシートは今、少しずつ周囲の人との“共同編集”を行えるようになってきている。

ほんっとに少しずつだけれど。

けれど、それを心の番人が規制することも
やはり同じように少しずつ少なくなってきている。

もっと先の未来には、超自我より世界が優しく微笑んでいると一層思えるようになっていたい。

思える自分を、認めるとか許すじゃなくて、

好きでいたい。



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