計画的貧乏【連載小説 #4】
計画的貧乏生活4週目。
73万円あった僕の貯金が遂に60万円を切り、58万円となった。
“怖い......”
口座残高を見てまず初めに抱いた感情はやはり怖さだった。
もちろんまだ、ある方だと思う。実際この先、預金残高が0になる事を考えると“あの時はまだまだあった方だよ....”と未来の自分に叱咤されるだろう。しかし、残高の減少は確実に僕の心臓の奥を抉って、そして苦しめた。
別に死ぬ訳じゃない事は分かっている。ただ、わざわざ経済的に困窮してまで生きている意味はあるの
だろうか。
むしろ、生き地獄なんじゃないか。
例え機械的であっても。“やりがい”なんていう美しい言葉が前置きに付かなくても。“仕事”と世間が呼ぶものに対して時計の時間を投資すれば基本的には対価が得られる。少なくとも僕の会社での仕組みはそうなっている。
それなら、それで将来への漠然とした不安なく生きられるなら。お金は生きるための「ポイントカードのポイント的なもの」と考えて割り切ってしまえばいいじゃないか。
僕は「お金が持つ価値を探るために計画的に貧乏になる」だなんて美談を掲げてしまった事をここに来て一層後悔し始めていた。
とはいえ、定食「かなめ」の常連になれた事、大将や奥さんとの会話。購入したカメラで次は何を撮ろうか考える最近の楽しみ。結婚式に参列して以降、軽くやり取りを交わす柳くんとの繋がり。これら間違いなく計画的貧乏生活の恩恵だった。
そう考えると、悔しいけれど、もう少し続けてみようと思ってしまうのだ。
気持ちを切り替えて、僕は今週の5万円の投資先を「自炊を始める事」と決めた。
これまでは正直、見て見ぬ振りをしていた食費。
昼食の220円のおにぎり2つとお茶。帰り道にスーパーかコンビニに寄って買う半額シールがついたお惣菜か170円のどん兵衛。どうしたって1日に800円以上はかかる費用。それが1ヶ月となると最低25000円は下らない。
勿論、頭ではきっと総合的に見て自炊の方が費用は抑えられるだろうな、なんて分かってはいるつもりでも、料理云々以前に調理器具やら調味料やらの初期投資がかかる事。そして、そもそもそういった器具のうちどれを買えばいいのか全く検討が付かずに過ごすうち、ずるずるとおにぎりと気持ちばかりに安さを求めた半額シールの惣菜で済ませる事が当たり前になっていた。
しかし「かなめ」に通い始めた事で。そして何よりこの先も大将の作る鯖の味噌煮定食やチキン南蛮定食を食べ、奥さんと何気ない会話を交わすためにも、頭の何処かではもう少し日常的な食費を抑えた方がいいと思うようになっていた。
となると、この計画的貧乏計画の中で次なる投資先は「自炊をする環境づくり」と「実際に自炊をすること」にしようと考えた。
調理器具については何も分からなかったので、ネットで「調理器具 セット」と調べて一番上に出てきたものを選ぶことにした。「直火対応」と書かれたものと、「IH対応」と書かれたものの2種類がある事を購入ボタンを押すギリギリで気づいて、慌ててIH対応を直火対応に変更した。自炊とあまりにも無縁すぎて、そんなことすら考えたこともなかった。
加えてお玉だの、フライ返しだの料理初心者には豚に真珠のような気がしないでもないがこれまた「キッチンツール セット」の1番上に出てきたものを購入することにした。
合計15000円。
費用を抑えるために費用がかかる。なんだか矛盾している気がして滑稽だったけれど、まあやってみるかと前向きに考えることにした。
加えてサラダ油や塩や醤油、胡椒やケチャップに加えて一丁前に昆布出汁やカレー粉なんかの調味料類をひとしきり買ってみることにした。
一度揃えると決めたら、本格的に全部を揃えないと気が済まない僕の性分。計画的貧乏2週目にカメラを購入する際にも、本格的なカメラでないと気が済まなくてなかなか購入に至らなかった過去の自分を思い出したのがデジャヴのように感じてかなり可笑しかった。
「まあいいか」で全てを受け流し、特に熱量を持って何かに拘るタイプじゃないと思っていた自分が案外そうでもないを知り、新たな一面に気づく機会となった。
そんなわけで調理器具にキッチンルール、調味料を揃えると合計で30000円。
これまでの僕のひと月分の食費に達した事になる。ここまできたら自炊しないわけにはいかないぞ、と少々プレッシャーにもなる投資となった。
2日後、早速自宅に届いた新品の調理器具を眺めるうち、何か新しい事を始めるワクワク感で溢れた心が躍った。
届くまでの間から考えていた最初の料理。思い浮かんだのは“お味噌汁”だった。
何を隠そう、僕はお味噌汁がかなり好きなのだ。電車が1分でも遅れたら謝罪が入るような国で、味噌さえ入っていれば味噌汁というゆるい定義。
おおよそ毎回同じ味わいのどん兵衛に飽きた日は、奮発して(あくまで僕の中で)お味噌汁と惣菜に置き換える夕食。このお味噌汁への置き換えによって一気に味のバリエーションが増えるのが最高に堪らない。
ほじくるものではないと分かりつつ、つい身まで食べてしまうあさりやしじみのお味噌汁。わかめと豆腐のコンビネーションも定番だけど好きだ。こんな風に具材ごとの組み合わせによっても変わる味わいも、飽きることなく好きでいられる理由だった。
早速、スーパーへと向かう。
具材は基本何でも好きだけれど、「かなめ」でも定番のねぎと油揚げ。そして豆腐が入ったお味噌汁はお気に入りだった。
普段はお惣菜コーナーが目的の僕だが、そこを通過する事になんだか勝手に得意げな気持ちになった。
しかし、得意げな気持ちも即座に打ち砕かれてしまった。
豆腐、ねぎ、油揚げ。
そのコーナーに行けば買えるとばかり思っていた具材達は値段や種類などがあまりにも多くて、どれを買えばいいのか全くわからなかった。特に数十種ある豆腐は全部同じように見えた。
「こりゃ至難の業だぞ....」
思わず漏れた本音。とにかく1番安いものをカゴに入れて他のものを見なかった事にした。
自宅に着いて早速、新品の鍋に水を入れて火をつける。カップ麺のお湯を沸かすケトルのボタンを押すだけだった僕がコンロで火をつけている。それだけで大いなる成長を感じた。
沸騰するまでに具材を切ろうと、買ってきたねぎと豆腐、油揚げを取り出す。少しカッコつけたくなって、密かに憧れていた「手の平で豆腐を切る」という小技をやってみる。
しかし崩れるわ、倒れるわ、大きさはまるでバラバラになるわ。
自分用でなければ申し訳なくて出せないような不揃いな仕上がりになった。ネギにしろ、油揚げにしろ、均等に同じ大きさに切り上げるのは簡単だと思っていたのに、想像とは真逆の手応えだった。
僕はこれまで当たり前だと思っていた母の料理の出来栄えや、定食「かなめ」の大将に心からすごい......と思うようになった。
四苦八苦して結局初めてのお味噌汁が出来上がったのは料理開始から40分後のことだった。
それでも、机に茶碗に入った白米とお椀のお味噌汁を見るとやりがいを感じた。
「いただきます」
普段どん兵衛を前にしたら出てこない言葉を小さく呟いて味噌汁を口にする。
し、塩辛い....
味噌入れすぎたかな....。
最初からよく調べもせずに、こんなもんだろうと入れた分量はどうやら多すぎたらしく、あまりにも濃い味わいだった。
豆腐もかなり形が崩れ、油揚げも切ったつもりが連なってしまっている箇所がいくつもあった。
自炊って難しい....。
初期投資に加えて調理時間がかかるだけだと思っていたが、そうか。美味しく作れるようになるまでの上達期間を考えていなかった、と僕は撃沈してしまった。
4週目。
投資する先を誤ったのだろうか、と翌日僕はモヤモヤした気持ちで会社へ向かった。そして何の気無しに、横にいた同僚の吉田さんに話しかけてみる。
「あの、お味噌汁ってあるじゃないですか」
「はい、ありますけど...?」怪訝な顔で吉田さんは答えた。
「あれってどうやったら上手く作れるとか、コツってあったりしますか?」
目をまんまるくして驚く吉田さんに僕は別に驚きはしなかった。そりゃあそうだ。
普段から意欲のかけらもなくひっそりと過ごす態度の同僚が急に味噌汁の話題を持ち出しているのだから。それも、どうやったら美味しく作れるかなんて聞き始めたのだから。
しかし、思いの外吉田さんは丁寧に返してくれた。
「まず、出汁を前日晩から取っておくのは手間だけれど大切です。あとは....そうだな。切った具材を、一度炒めて水分を少し飛ばすと味がグッと引き立つような気がします」
「あ、ありがとうございます...!」
そういって僕はすかさずアナログにメモ帳に
そのアドバイスを記した。その様子に彼女は苦笑しながら、
「最近、カメラを買ったり、お味噌汁を作るだなんて何かいいことあったんですか?」なんて少し揶揄い気味に聞いてきた。
しかし、僕はこの揶揄いを僕は嫌に思うどころか、むしろ嬉しさすら覚えた。同僚であっても業務以外で会話をほぼ交わさないのに、それ以外の日常の何気ない会話。お味噌汁を話題にコミュニケーションを取っているのだから。
「いや、最近少し自炊をしようと思って...。まずはお味噌汁を作れるようになろうと思って昨日作ってみたんですけど、あまり上手くできなくてつい聞いてしまいました....」
「自炊!すごいですね。好きなお味噌汁の具材とかってあったりされるんですか?」
「豆腐と油揚げ、それからねぎが入っているのが好きです。だけど、昨日豆腐も上手く切れなくてボロボロになっちゃって」
「絹豆腐だったのかな?木綿だと最初は上手く切るの難しいかも、木綿豆腐の方が切りやすいですよ」
木綿、絹。そうか、豆腐コーナーで散々僕を迷わせた豆腐達にもお味噌汁に向いているもの、そうでないもの色々あるのか、と新たな気づきが新鮮だった。
「また....料理のこと聞いてもいいですか?」
「もちろん!私が答えられる範囲だったらですけど(笑)」
同僚と交わすほぼ初めてと言ってもいいほどの何気ない日常会話に心がソワソワした。
気持ちばかりに半額シールが付く時間帯をなんとなく狙い、棚の中で程よく安い商品を手に取る事で、「今日は安いのゲット出来たから」と自分で自分を納得させる事が常態化していたこれまで。
食材自体は安くても、組み合わせや工夫次第で美味しさを2割も3割も増せる(今に僕にはせいぜい1割だが)これからを少し楽しみに思った。
よし、帰りにスーパーに寄って、次は木綿豆腐を買ってお味噌汁をリベンジしよう。業務中にも関わらず頭の中を次なるお味噌汁計画が埋めるくらいには僕は次の自炊のことを考えていた。
あ、来週「かなめ」に行く時に大将にお味噌汁作りのポイントを差し支えない範囲で聞いてみよう。
きっとその話を聞いている奥さんが横で「愛情よ、愛情」なんて自炊を始めた僕を少し揶揄いながら笑顔で教えてくれるんだろうな、という状況は想像するに容易かった。
計画的貧乏4週目。
自炊環境を整えて、実際に自炊をする為に使った32000円。
決して安くはないけれど、長い目で見てきっと食費を抑える為に行う有効な初期投資になるだろうと思う。そうであってほしい。
そして、この出来事によって僕はこれまで僕の為に食事を作ってくれていた人に心からのありがたみを感じた。
さらに何より“まあいいか”で全てが完結していた殻の中生活から半歩抜け出し。新しい事を始める事は同僚との仕事以外における会話の幅が広がるきっかけとなった。
挑戦ってやつも悪くない、そう思った。
こうして5万円は使い切らなかった今週末に
僕の貯金残高は58万円から55万円となった。
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【これまでのあらすじ】
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