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するもされるも、難しい『共感』とやらを。

大人になってからドッジボールをしたいと思っても。それなりに人数を集め(しかもボールをぶつけ合っても大丈夫そうな)、それなりの大きさの場所を確保することが恐ろしく大変なことに気づき。

どれほど嫌なことも、過ぎ去った頃にはやりたいと思っても簡単に出来る事じゃないから楽しんだ方が得かもな。そんなことを運動会日和の今日、思いました。誰かドッジボールしましょう。お手柔らか目なドッジボールを…。

気持ちの良い秋晴れの日が続きますね。先日、私は東京現代美術館の「あ、共感じゃなくて。」展に行ってきました。

タイトルから惹かれた展示。展示の概要に描かれていた内容が更なる興味を引き立たせてくれました。

SNSの「いいね!」や、おしゃべりの中での「わかる~~~」など、日常のコミュニケーションには「共感」があふれています。共感とは、自分以外の誰かの気持ちや経験などを理解する力のことです。相手の立場に立って考える優しさや思いやりは、この力から生まれるとも言われます。でも、簡単に共感されるとイライラしたり、共感を無理強いされると嫌な気持ちになることもあります。そんな時には「あ、共感とかじゃなくて。」とあえて共感を避けるのも、一つの方法ではないでしょうか。

共感しないことは相手を嫌うことではなく、新しい視点を手に入れて、そこから対話をするチャンスなのです。

ネガティブ・ケイパビリティ。

問いに対して必ずしも答えを導き出さなくてもよい。すなわち、必ずしも”共感”と言う形で解を出さなくてもいい。そんな前提のもとで行われていた展示。

行ってからというもの、共感ってなんだろう。どんな時に共感するかな。頭の中は共感の文字でいっぱい。正解も不正解もありませんが、自分なりに共感に対して考えたことをまとめてみました。

まずは、中高女子校に通っていた私。何となく“女子=共感を求める”のイメージがある中、経験した『共感』と聞いて思い出す少し苦い思い出から。

〇女子校の私が思い出す「共感」の思い出

高校3年生の世界史の授業の時だった。少人数制のクラスで、2時間続けて世界史だった日のこと。私の隣には、中高一貫の女子校で中学1年生の時から仲の良い友人が座っていた。すごく“派手”に仲がいいわけではないけれど、一緒にいると心の底から落ち着ける。背伸びをしなくても、無理をしなくても「明日も友達でいてくれる」保証がある友達。うまく表現することは難しいけれど、彼女と私の仲を表現するとこうなると思う。

そんな友人が、授業と授業の合間に「お腹痛いかも....」と呟いた。そんな彼女に対して私は「ねっ!」と謎に共感めいた一言を発した。

「ねえ、話聞いていないでしょ?」

少し笑いながら友人は言った。確かにあんまり聞いていなかった。ぼーっとしながら返答してしまうことがあるのは私の悪い癖。しかし、今でもあの時の反応に「正解」があるとするならば何と言う言葉掛けだったのか。わからない。

「お腹痛いと大変だよね」

これだとどうだろうか。「ね!」よりも、もう少し丁寧な共感。聞いた上での共感になるから、「ねえ、話聞いていないでしょ?」と咎められることはおそらくない。これなら話をしっかり聞いた上での共感になるだろうか。

いや、そもそも共感自体求めていなくて。安易に共感して欲しくない。ただ、お腹が痛いと言う事実だけを知っていて欲しかったのかもしれない。

それならば、「お腹が痛いのか…」と言うオウム返しが正しいのだろうか。しかし、それだとあまりに淡白すぎるように思う。もしくは「大丈夫?」もいいかもしれない。だけど、大丈夫じゃないから、お腹が痛いことを伝えているわけで。

このようにあの瞬間を思い出すと何とももどかしい気持ちになるのだった。展示の末尾にあった「貴方は共感と聞いて思い出すのはどのようなことですか?」という問いかけに対しての私のアンサーは間違いなくこの思い出である。

女子校で感じた共感の難しさ、とでも言おうか。
いや、女子校でなくとも。するもされるも、『共感』とやらは、どうも難しい。

〇そもそも「共感」とは何だろうか。

展示を観た日から、私の頭の中では『共感ってそういえば何だろう』と暇さえあれば考えてしまう。本当に暇なのだろう。明確な結論は出なかったが、強いて言えば、

『相手を肯定する気持ち。あるいは肯定したいと思う気持ち』

なのではないだろうか、という結論に私自身の中で至った。同感、同調、同情など、共感と似た用語はいくつかある。しかし、今回は敢えて各々を定義し、区別した上で語ることはしない。あまりにも難しいし、本質から少し離れた話を含んでしまいそうであるからだ。とにかく、”共感”と聞いて真っ先に思いつく感覚。それが私の中では”相手を肯定する気持ち・肯定したいと思う気持ち”だ。

”肯定”という表現を用いたのは必ずしも”素敵”などポジティブな共感以外も存在するからである。”あの人むかつくよね”に対する”めっちゃ分かる”はポジティブな共感とは言い切れない。”今すごく悲しいんだよね”に対する”辛いよね”も同様に然り。

「する・したい」と敢えて分けたのは、共感には
⑴真実の共感
⑵虚偽の共感
の2種類が存在すると考えたためである。

共感①:真実の共感

まず、相手を肯定する気持ちに関して。

共感を可視化した具体例を挙げると、SNSの「いいね」や「フォロー」がある。誰かの発信内容に対して、素敵!と思う気持ち。もしくは、発信内容に関わらず、発信者自身を“良い”と思う気持ち。相手を肯定する気持ちに他ならない。

この”良い”と思う気持ちが偽りなく自分の心から感じる気持ちであれば、それは真実の共感と言える。

共感②:虚偽の共感

次に、相手を肯定したいと思う気持ち、について。

肯定する、と肯定したいを敢えて区別したのは、必ずしも100%肯定していない場合も含むと考えたためである。共感には時折、心は共感していないけれど、何かしらの理由(上長からの圧力など)で共感せざるを得ない状況も含むからだ。

共感せざるを得ない状況には、マジョリティ(多数派)に逆らえない気持ちから意見に従う場合。小学校では良くこの気持ちを経験した。このような分かりやすい事例でなくても、同じ映画を観た友人と「あの映画よかったよね~」とその場の雰囲気を壊さないために発する虚偽の共感もある。何かしらの理由によって、相手から嫌われたくない、と感じる時に共感自体に虚偽があることになる。安心材料とでも言えるだろうか。

そうだ、少しお恥ずかしい話だが。自分が”いいね”をSNSでもらうために自分の憧れの対象に対して”いいね”を押してしまったことがある。自分がフォローされたいがために、フォローをしてしまったことがある。この駆け引きのようなやり取りの中に、相手に憧れがある時点で肯定はしている。ただ、やや過剰というか。”保険”をかけるような共感ゆえに”肯定する”というより”肯定したい”という真に共感しているとは言い切れない、絶妙な共感がある。

つまり、私が思う『共感』を一言で言うなればその気持ちが真実であれ、やや虚偽を含むとて、”相手を肯定する気持ち・肯定したいと思う気持ち”に他ならない。とはいえ、私が思うに絶対共感は存在しない。相手は自分でないし、自分は相手ではないから。相手は自分のコピー人間ではないのであれば、”共感する”という行為自体は真実でも、共感の度合いや深度は人によってまちまちである。

そこで次は『共感』に動詞をつけ、共感という行為について考えてみる。多くの場合、『共感』につける動詞は⑴相手に共感「する」⑵自分が共感「される」の2種類がある。まずは、前者について考えてみた。

〇相手に共感「する」ということ

「この景色素敵じゃない?」
「この映画すっごい好きなの!おすすめだよ」

自分の目の前にいる相手が発した内容にまさしく「そうそうそう、そうだよね!」と肯定する気持ち。先に述べた相手を肯定する気持ちである。

私が思うに、『共感する』行為と『過去を想起する』行為は似ていると思う。相手が素敵だと感じる景色を見て、共感に至るまでのプロセスは何段階かある。

⑴相手が素敵だと言う景色を見る
⑵過去に自分が見てきた”素敵”な景色を想起する
⑶過去の”素敵”な景色と相手のいう景色を比較する
⑷過去のレパートリーに引けを取らない”素敵度”であれば肯定が生まれる
⑸相手に対して共感する

景色の事例以外にも、相手の辛さに共感する時には自分が過去に経験した似たような辛い事例を想起し、共感に繋げていることが多い。ただ、共感と想起は似ているが、同義語ではない。ベクトルが異なる。”想起”の段階ではベクトルは自分に向いている。過去の経験や感情を掘り起こすために、想起する対象は自分だ。その後、想起によってもたらされた感情を相手に当てはめる時に”共感”という相手向けのベクトルが発生する。

共感するまでには、⑴自分の過去の想起から始まり⑵その後相手に対する共感が生まれるという2段階(かそれ以上)を踏むことが多い。

〇自分が共感「される」ということ

自分が共感を「される」立場にある時。その感情は2種類ある。⑴共感してほしい、という共感を求める気持ち。そして⑵簡単に共感されたくない、と共感を拒絶する気持ちの2種類である。

⑴共感してほしい気持ち

家族や、恋人など自分と近い存在に対して”もっと分かってよ”と思う気持ちになったことがある人は多いのではないだろうか。友人に対してだと許せる共感され度合いでも、家族や恋人だと”もっと”と思ってしまうのは子供の自分が出てしまうから、ということを聞いたことがある。確かに。

上記は身近な例だが、世の中に存在するビジネスは共感の上に成り立つ。誰かが素敵だ、と思うセンスで絵を描ける人は絵を生業に出来る可能性がある。私は、精米店で学んだお米の品種の違いにハマっておむすびを販売する活動をしているが、そこを通じてSNSをフォローしてくださった方はおむすびの味や私という存在などどこかしらに共感。私を肯定する気持ちが芽生えてくださっている。本当に有難いことである。

しかし、非常に厄介なのが個性ある発信と、その内容に「共感されたい」という想いに無反応の状態が生まれた時である。共感を求めて発信した内容に対して、あまりにも反応がない状態。

その状況に対して、もっと反応を増やしたい、言葉を選ばずに言えばファンをもっと増やしたい。そう思うと、段々とファン側に寄っていってしまう危険がある。

クセのあるカレー屋さんが、全くお客さんが来ない状況に対して、経営の為に共感を呼ぶために気づいたら大衆向けにクセの無いカレーを生み出すようになっていた。そんなイメージだ。(クセがあるとはいえ、少なくとも刺さる人には刺さるカレーを当初作っていたと仮定する)

ややくだけた、クスッと笑えるような文章を書くのが好きな私。そっくりそのままその文章を仕事にするには、誰かの共感が生まれる必要がある。そして生まれて欲しいと願う気持ちがある。

ただ、あまりにも誰の心にも刺さらないと徐々に”よくある”文章の書き方だったり。やけに感動するような文章を自分の心に嘘をついて描いてしまうようになるだろう。noteでよく募集している○○賞や、”思い出の味”かなんかの大賞に応募する際に、共感を集めたくて自分の心に少し嘘をついてやけに感動めいた文章を描いてしまったのは胸がチクッと痛む経験だ。

基本的には刺さる人に刺さる文章を描ければいい、共感されなくても発信したいことこそが自分だ。そんなスタンスで文章を描いてはいるものの、あまりにも刺さる範囲が狭いとそれはそれで悲しい。ましてやビジネスにならない。だからこそ誰かの共感を求めるが、求められるままを形にしても無個性になる懸念がある。本当に難しい。

⑵簡単に共感されたくない気持ち

共感して欲しい気持ちと対極にありつつも、間違いなく存在する「簡単に共感されたくない」という気持ち。共感を拒絶する気持ちもあるとは、本当に共感とは不思議なものである。

初めて恋人に振られてしまった時、私は1日中泣いていた。とにかく大学の1限から4限くらいまでは涙を流していた。一緒に授業を受ける約束をしていた友人らが気を遣ってティッシュをくれたり、慰めてくれた(今考えると恐ろしいくらい申し訳ない)

同時に過去に恋人に振られてしまった経験のある友人に「どうやって気持ちを切り替えていた?」「どうすればいいんだろう」と聞いていた。

今考えたら、この時に無意識のうちに「過去に振られたことのある友人」には自分の気持ちを想起し、共感してくれるだろう。そんな仮説があって話し相手を選抜していたのだと思う。そうした経験がない人は今の自分に簡単に共感してほしくないし、共感できないだろうと考えていた。無茶苦茶である。

相手よりも少なくとも”その経験”(今回は恋人に振られる)に関しては、優位に立っていると思ってしまうからだろうか。

そしてこうした日常の一コマ以外のビジネスにおいてもやはり「簡単に共感されたくない」気持ちは発生する。何様だよ、と思われることは重々承知の発言をする。時折、SNSのダイレクトメッセージをいただくのだが、私の記事をしっかり読んでくださってお話したいと思ってくださる方と、そうでない方からのメッセージを見比べてみる。

あぁ本当に話したいと思ってくださっているんだな。そう思える方は文章から伝わってくる。けれど、ただただイベントやマルシェで人数合わせの為に“おにぎり”を握って欲しいなど、少なくとも私がおむすびと呼ぶことやその背景を知らないのか...と悲しくなると“簡単に共感されたくないな”と共感を拒絶するような気持ちに陥ってしまうことがあった。

刺さる相手に刺されば嬉しいが、刺さった相手が刺したい相手ではなかった。共感して欲しいし、されなければ生業として成立しない中でされたくない気持ちが生まれる例である。

画家の方に、本人が描きたくない画風を安易に求めてしまった時の画家本人の気持ちを想像すると分かりやすいかもしれない。

〇するもされるも、共感とやらは難しい。

共感には、真実の共感と虚偽の共感が存在する。すなわち、共感とは“相手を肯定する気持ち・肯定したいと思う気持ち”と考える。

しかし、いくら真に共感しているとはいえ絶対共感は存在しない。共感の深度には微々たる差が生まれうるからである。

そして、共感を動詞化すると、相手への共感と自分に対する共感の2種類がある。共感「する」行為と、共感「される」行為の2種類だ。

共感する時、そこには自分の過去の想起が生まれる。自分の思い出や似た経験を想起し、相手の状態に当てはめて共感に持っていく。

あるいは、共感される場合。共感してほしい、と共感を求める一方で、簡単に共感してほしくないと相手を拒絶する気持ちも同時に持ちうる。

こんなことをつらつらと述べたが、兎にも角にも共感とは厄介で複雑なものである。展示を通して、そして今回の執筆を以て思ったこと。

共感することに囚われすぎず、
共感されることから自由でありたい

そんなことを強く思った。

とはいえ、文章という形で発信をしている時点で少なからず読者の共感を得ようとする下心があるのだなと自分自身を可笑しく思った。

参考文献)
共感を得ようとして思考した私の下心

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