計画的貧乏 【連載小説#1】
突然だけど
僕は貧乏になる事に決めた。
今、決めた。
唐突にも【未来貧乏宣言】なんてものをしてしまった僕だけれど。実を言えば。というか実を言わなくても。僕は誰がどうみても臆病者で小心者な性分だ。
宣言した手前もう引き返すことはしないが、内心は恐怖でヒヤヒヤしている。お金なんて使い切ってしまえば貧乏になることは簡単で。だけれど、貧乏になった末にお金持ちになるにはかなり大変なことは明らかだ。それでも、貧乏になると決めたなら。臆病なりにも、あくまで。あくまで計画的に貧乏になろうと思う。
だけど、その前に少しだけ。僕の身の上について語っておくとする。
身の上を語るといっても、あまり語ることも多くない僕は、ただの25歳会社員だ。本当にただの会社員。大学をなんとなく卒業して。当たり障りのない言葉を散りばめた就職活動。その末に辿り着いた“なんとなくいい会社”で働くそこら辺の会社員だ。
拘りもなく選んだ“なんとなくいい会社”。別に不満はないけれど、逆に言えば思い入れもない。死ぬ間際を想像したとして。心からこの会社でよかったと思えるか、と誰かに聞かれたとしてもきっと首を縦には振れないだろう。
“自我がない”
と周囲からはよく言われる。“良くも悪くも”というヘンテコな前置き付きで。
前者は、仕事を選り好みしないところを。後者は続々と昇進する同期を横目に特に焦ることもなく仕事をする姿勢を指しているのだろう。きっと。
当の本人から言わせてみれば、自我がないというよりも。常に“まあいいか”という気持ちが勝ってしまうのだ。
新しいプロジェクトの責任者に同期が抜擢された時も、まあいいか。
自分の心の中ではおよそ定時に会社を出る気満々だった日。定時になっても誰も帰る様子のない気配を察知し、誰かが帰るその時まで惰性でパソコンをいじっている風を装う時も“まあいいか”。心の中で早く帰りたい気持ちを揉み消した。
“真面目だ”
とも言われる。中学の卒業文集に掲載された、あまりにも残酷な〇〇な人ランキング。僕の名前は「真面目な人ランキング」という嬉しいのか嬉しくないのかよくわからなくなるランキングで弱々しく首位を獲得していた。
自我が無くて、真面目。側から見たらそうかもしれないけれど。僕の中では、僕なりの小さな声を持っていた。
ただ、なんせこれまであまりにも受け身で生きてきて行動的とはまるで無縁な人生だったものだから。今この状況より“いい”があるか分からない。だから何か気に食わないことがあっても、わざわざ自己主張をしてまで抗う理由がない。そして気づけば“まあいいか”で全てが完結してしまっているのだった。
僕は「僕」という殻の中で、大体の気持ちを消化させることに、何の違和感も覚えなくなっていて。むしろ安心感すらもたらす「殻の中生活」から、たった半歩でも抜け出すことは僕を非常に臆病者にした。
もみくちゃにされて、シワがあるのが当たり前のようになったシャツみたいに。僕は段々と、自分の心との会話が難しくなっていた。
そんな身の上を纏った人間の僕がどうして貧乏になろうと思ったか。
機械のように働いて、機械的に生み出されるお金に一体どのくらい価値があるのか。何に使えば価値があるのか、まるで分からなくなってしまったのだ。
僕は毎月同じように働き、同じように大体決まった額の給料を貰う。貰う、と書いたけれど実際は月末に給与残高を見て、数値の上昇を画面上で確認するだけだ。果たしてその金額に見合うだけの価値のある労働をしているかは分からない。
そこから、息をしているだけで出ていく、1K8万円の家賃。それからほぼ自炊をしない僕と、僕の衣類を洗うためだけの水道代。暑がりで寒がりな僕の生命線とも言える光熱費。それらが生活費として毎月引き落とされる。その現象に僕は抵抗もせず、大人しく従う。
貰う、確認する、払う、生活する、働く。
全部に“なんとなく”がつき、“まあいいか”で従う。利口なベルトコンベアの機械のように2年間それを繰り返していた。趣味も生活へのこだわりもない僕は浪費家ではなかったが、倹約家でもなかった。
欲しいものがあるから、とか。目標があるから、といった類の意思を持ったお金の使い方をしてこなかったのだ。
そんな僕の全財産は73万円。
社会人2年目としてそれが多いのか、少ないのか。分からないけれど、僕を生かす金額としては可もなく不可もなかった。もちろん、社会人になりたての頃は毎月の給料に“何をしようか”なんて心躍る瞬間もあるにはあった。
けれど、明確な使い道もないまま持て余すうちに。段々と使うことに罪悪感というか。いくらあっても満たされなさを感じるようになってからは、お金を使うことに躊躇するようになってしまっていた。
機械的に生きて機械的に生み出される“生きるためのポイント”でしかないお金。本音をなくして迷子になった僕と同じように、持ち主に価値を見出されなくなってしまったお金も使い道をなくして迷子だった。
だから、僕は貧乏になろうと思う。
僕のお金が、僕の人生にどれだけ意味があるのか。どこに使っていけばいいのか。少し確かめるためにも計画的貧乏になろうと思う。
作戦というほどでもないが、1週間で約5万円。つまり大体3ヶ月半で僕は全財産の73万円を使い切ろうと思う。もちろん、その間にだって働くのだから機械的に数値は変わるだろうけれどおおよそ、だ。きっと、いい意味で“まあいいか”を使うタイミングだろう。
こうして遂に僕の計画的貧乏生活が始まった。
記念すべき、1週目。さて、何からお金を使おうかと考えた時、真っ先に思い浮かんだのが食事だった。食事を豪華にすることは、手っ取り早く僕の心を満たしてくれそうな気がしたのだ。
これまでは昼はコンビニで買う220円のおにぎり2つとお茶。夜はせいぜい会社帰りに半額シールがついたお惣菜か170円のどん兵衛を買って適当に済ませていた。食べたいか、よりも手を出せる値段か否かがその日の夕食を決めた。
自炊の方が総合的に見て安くなることは頭にどこかで分かっていた。けれど、ずるずると弁当惣菜生活を続けるうちにそれに慣れきってしまっていた。それでも、食費がかかることへの多少の罪悪感を揉み消すために、陳列されている商品の中で気持ちばかりに安いものを選ぶ。ちりも積もればと思いつつ、その場しのぎの安さを取る。
そんな食事を罪悪感なく、少し豪華にしてみようと目論んだ。初日の夜は2700円のうにいくらサーモン弁当を買ってウキウキで帰宅した。その次の日は、1800円の牛カルビ弁当。3000円の大トロを買って、炊き立ての米に乗っけて喰らいつく夢のような食事も楽しんだ。
仕事終わりに値段を気にせずの豪華な弁当や惣菜を買い、家に帰って至福の時間を味わう。自分の欲に忠実であることはとても清々しかった。
どうせなら昼ご飯も豪華にしようと、貧乏生活2日目から僕は会社から徒歩3分の定食屋「かなめ」に行くことにした。「かなめ」は生姜焼き定食が有名なお店で、大将と奥さんの2人で切り盛りしている小さな食堂だ。
同期や先輩の間ではなかなか評判がいい店だったが、僕は1度も行ったことがなかった。一緒に行くような相手も、誘われるような仲間もいなかった。そして何より、昼食に700円以上をかけることに躊躇するうちに、おにぎり2個のルーティンが染み付いていた。
初めてくぐる「かなめ」の暖簾。
お冷を持ってきてくれた大将の奥さんに生姜焼き定食ご飯大盛りを注文する時は、普段の倍豪華な昼食を口にすることに少し緊張した。
「生姜焼き、熱々だから気をつけてね」
運ばれてきた温かい生姜の香りの湯気に包まれた、見るからに熱々の生姜焼き定食。
丁寧に運ぶ様子から伝わる奥さんの人柄に、同期が定期的に通うのも納得できた。そして一口食べて感じた大将による絶妙で繊細な甘辛い味付け。益々、その納得感は増した。
「美味しかったです」
お会計の時に思わず口にした言葉に、奥さんは
「お口に合って良かったわ。また、いらっしゃいね」
とびきりの笑顔で返してくれた。
うにいくらサーモン弁当に牛カルビ弁当となかなか豪華な夕食続きで、やはり昼食は抑えめで行こうかと思った貧乏生活3日目。いやいや、僕は貧乏になるべく貴族の生活をするんだ、とよくわからないことを思い、翌日も「かなめ」の暖簾をくぐった。
「あら、いらっしゃい」
奥さんは昨日の僕を覚えていてくれたようで。
鯖の味噌煮定食を頼んだ僕に
「兄ちゃんお目が高いね。鯖の味噌煮も美味しいよ」
そう話しかけてくれた。
大将の作るコク深い味噌と鯖の旨みがたまらなく美味しかった。惜しむように最後の一口を食べたところで、明日もまた来よう。気づけばそう思っていた。
「ごちそうさまです」
「2日連続ありがとね、兄ちゃん」
少しくすぐったい気持ちになった。翌日も、翌々日も「かなめ」に通った僕は“昼食を豪華にする”とか“お金を使って貧乏になる”とか。そんな理由以上に、「かなめ」の奥さんの
「今日も来たのかね、いらっしゃいね」
という言葉が嬉しくて。そして大将の繊細で絶妙な味付けを食べたくて。「かなめ」に通うようになっていた。
すっかり顔馴染みになっていく僕に、「兄ちゃん、ちょっとおまけ付けといたよ」と漬物を加えてくれたり。多めに揚げたから、と鮭ハラス定食の脇に唐揚げを2個も乗せてくれることもあった。
計画的貧乏生活7日目。「かなめ」に通い始めて6日目のことだった。
豪華にすると意気込んだ食費は1日およそ4000円から5000円。7日で大体3万円弱使い果たした。73万円だった貯金が70万円を切ったのを確認した時は、ゾワっと鳥肌が立った。自分が食べたいものを欲望のままに食べる。それだけでこんなにお金が減っていくのか、と大いなる怖さを感じた。
そしてこの頃には気づいていた。
豪華な夕飯を選ぶことに、初日ほどにはワクワクしていないことに。常に豪華であることが必ずしも心を満たすわけではないことに。何なら、無理にでもお金をかけて“ワクワクに値する夕食探し”に躍起になっている自分にすら気づき始めていた。
半額シールを付けた弁当から、“食べたい”と“安い”のギリギリの妥協点からその日の夕食が決まっていた過去も悪くない。段々とそう思うようになっていた。そんなわけで僕は2週目から夕食を、これまで通り半額シールのついたお惣菜やお弁当に戻すことにした。
その代わり、数日に一回は必ず「かなめ」で大将の料理を食べにいくことに決めた。確かに、おにぎり2個よりは倍以上の値段がかかるけれど。値段以上に、何というか。大将の美味しさ抜群の料理と奥さんの笑顔に会いたいと思うこと。そして、何よりも自分の顔を覚えてくれる人がいて。そのためにお金を使うことは自分にとってすごく嬉しいことのように思えた。
計画的貧乏生活1週目。
「かなめ」の大将の味と奥さんの温かさに触れたことで、誰かに会うために。それによって高ぶる自分の気持ちを満たすためにお金を使う嬉しさを知った。
(続く)
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