見出し画像

言語化について

言語化

 言語化とはシンプルに言うと、気持ちという実体のないものに名前をつける作業だ。だけど、それは思ったより奥が深くて、ずっと複雑で、難解なものだと、この頃感じる。私としては、言語化は気持ちという虫を言葉という虫取り網で捕まえるイメージ。虫を虫取り網で捕まえられたら嬉しいように、気持ちを言葉で捕らえる(捉える)ことが出来た瞬間は、ほかでは感じられない喜びを感じる。

感情、気持ち

感情って実体がない。気持ちは人の心の中に居るから、持てないし、掴めないし、見ることさえ出来ない。また一人一人が全く同じ感情をもっているとも限らない。同じ「嬉しい」でも、その「嬉しい」が全く同じ「嬉しい」であることは無いだろうし、全く同じだとしてもそれを確認したり証明したりする術がない。そんな掴みどころのない感情や気持ちを言語に化けさせなければいけないのだから、言語化って難しい。

文字

 私は文字にして残すということが好きだ。何故かというと、修正ができて、正確に情報を示しやすいからだ。必要な情報を付け加えることも、助詞を後から変えることも、文章の順番を逆にすることも、なんでもできる。あらゆる修正がきく。そしてそれが正確な言語化に繋がる。また、文字にすることで気持ち自体が見える訳では無いが、紙上で気持ちは文字という身体を得ることができる。気持ちは文字になって紙上に永遠に居続ける。読み返すことができる。読み返すことで、世間に振り回され自分を失いそうになった時に、元に帰ってくることができる。書き残すということの重要性を伝える表現で、ショウペンハウエルの以下の表現が卓越していたので引用させていただく。

「心に思想をいだいていることと胸に恋人をいだいていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい、この恋人がつれなくなることはありえないと考える。しかし去る者は日々に疎しである。もっとも美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となるおそれがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ、我々を避けてゆくえも知れず遠ざかる危険がある。」

『読書について 他二篇』 ショウペンハウエル著

喋る

 私は喋るということが苦手だ。何故かというと、修正できないし、すぐ消えてしまうからだ。今の情報はもっと後に言うべきだった、という時、「待って、今の忘れて」と言うしかない。言い間違えたら少し前から言い直さなければならない。話をする上で変な間を作るといけないので、とりあえず思いついた言葉を口に出さなければいけない。的を射た表現を模索している時間などない。喋りとは稚拙で粗いのである。このように喋りにはスピードを求められるから、逆に喋りの中で良い表現ができた時は恐ろしい位の達成感があるとも感じる。

 語彙が少なくてなかなか納得のいく表現が出てこないことが多い。言い表したい感情が体内に取り残されたままの時だってある。それでも、私の中の気持ちが、私の表現によって上手く体の外に姿を現してくれた時は、なんとも言えない快感がある。その快感が好きで、こうして今日も私は文字を打つのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?