自称「クラッシェン派」の日本語教師

2019年12月の初めにクラッシェンが日本に来て、講演を行った。情報を知ってシェアしていたら、養成講座で教えていた方が聞きに行っていた。
その話を聞いていて、前の日本語学校のときから自分なりに考えて変えていった教え方の方向性が、実はクラッシェンに近づいていたということがわかった。
こういう言い方(~派)をする日本語教師に会ったことはないが、これからは自称「クラッシェン派」の日本語教師としていこうかと思っている。

〈自分の考えていたこと〉
・文型導入、語彙導入における例文作成は効果が薄く、不自然なアウトプットを生む。
・助詞や動詞の活用などの誤りを直すだけの作文指導では伸びない。
・話したい、書きたいと思っていない中で、無理やりアウトプットさせてもしかたない。

なんてことを考えていたのだが、クラッシェンはこれに近いことを意味がない、むしろ害があるとはっきり切り捨てていたらしい。
さすがに自分はそこまでは言いきれないし、パターンプラクティスも一定の効果があるとも思ってはいる。
人によって合っている方法は違うとも思う。
しかし、初級後半ぐらいからはやらなくてもいいのではという考えになっている。

そして何より、前のことを受けて

・そもそもインプットが少ないのだから、不自然なアウトプットが出るのは当たり前。書けと言われて書けないのも当たり前。
・もっとどんな場面でどう使うかを知ってもらったほうがいい。

と考えていた。

「~という表現を使って文を作りなさい」というのは練習としてもテストとしても最悪だと思っている。
授業のための例文は「例文のための例文」であり、不自然で「いかにも」な学習者を生み出すことになるだろう。

文を作ってもらうなら、具体的な場面を設定して「こういうことを言いたい」と思わせて書かせるようにしている。文を作らせるというより自然な語彙のつながりを示すためのものにしている。

作文は表現の幅を増やすために
①誤りの訂正ではなくリライトをして、何パターンかの書き方を提案する。
②リライトした作文をいくつかピックアップして学習者の仲で共有する。
ということをするようになっていた。

クラッシェンいわく同じテーマで書かれた文をたくさん読むのがいいということだが、学校の授業という枠の中でやるのにこの方法は悪くなかったと思う。

とにかく大事なのはインプットであり、「文法を教える」ことに効果はなく、オーディオリンガル、パターンプラクティスはいい方法ではない。

教科書で勉強する人(実際に周りの人がどんな言葉を使っているのかということに興味を持たない人)が途中で成長が止まることもよくわかる。
逆にアニメやゲーム、ドラマ好きが壁にぶつかることなくひょいひょいとN2、N1といったところを超えてさらに上達していく。
テキストでいくら一生懸命勉強してもどこかで限界がきてしまう。

学校として「授業」をしければならない場合に考えるのは、どれだけ理解可能な自然なインプットを与えられるかだと思う。
とにかくインプットを増やすことが大事で、説明はそれほどしなくてもいいと思えるようになった。

前任校では働き始めた当初、時間内で扱うべき量の多さに戸惑ったのだが、途中でインプット量を増やすことの効果に気が付いてからなるほどと思ったものだ。
そこから今は量が減らされてしまっているらしいが、果たして効果は上がっているのだろうか。
(よろしくないといううわさは聞いているが、これは授業の問題か、メンバーの変わった教師陣の問題か、それ以外の問題かは…わからない。)

そこから「なぜこの先生のクラスは口頭能力が伸びるのだろう?」と思っていたことともつながった。
学生からも評価の高い、カチッとした見てくれのいい授業をする先生は、評価のわりに学生は伸びない。
そのあおりで別の先生の評価が低くなってしまっていたのだが、学生の伸びは明らかに逆だったし、自分の評価も逆だった。
(学生は伸びないのにカチッとした授業ができるだけの人が認められていくのが、日本語学校のダメなところとしか言いようがない。)

若い教師があまり説明をせずに授業を進めれば信頼されにくいだろうということも理解はできるが、だからといってそれを見過ごしてしまっては学校にいいことはない。

これからも自分からテキストとして『みんなの日本語』を選ぶことはないだろう。

ただ、難しいのはアニメやドラマを見たとしても、興味を持たないものは興味をもたない。
(自分で見たくて選んだものではなく、教室という場所で、教師に与えられたものであるから、当然と言えば当然であるが)
テキストの内容に関心をもつが、実際に使われている表現に関心をもたない。そういう学習者に対して、こういう考え方は効果のないものとなってしまう。
オーディオリンガルはそういった人たちもまとめて練習をさせ、授業らしくするという目的を達成するにはよい方法になる。それが学校で授業をするということの難しさだと感じている。

2019年12月23日

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