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【ショートショート】ミント

いつもと変わらないはずの帰り道に、いつもと違う何かを感じる。

いつもならしないのに、訳もなく遠まわりをした。
最寄り駅の方へ行かず、反対方向に歩き出した。

既に青になっているのに横断歩道を渡らず、そのまま赤になるのを見届けた。
それを何度か繰り返した。

道端に夕べの雨の忘れ物が残っている。
反射した空に重なる、自分の顔を踏みつけた。
靴下越しに湿り気を感じる。

僕の通う中学校では、寄り道をしてはいけないことになっている。
これまで一度もそのルールを破ったことはなかったけど、今日初めてコンビニに立ち寄った。
でも、何も買わなかった。


僕は一体、何をしているんだろう。


駅のホームに着いても、無駄に電車を見送った。
ホームの端っこから端っこまで往復した。
さすがに馬鹿馬鹿しくなってきて、次に来た電車に乗った。


仄かな西日に、心地よい揺れ。
何が見たいわけでもないのに、車窓を眺める。
最終章の手前に栞を挟んだ文庫本は、カバンの中だ。


僕はあることに気付いた。

いつも通りの帰り道に、いつもとは違うものを感じるのは、自分がいつもと違うからだ。

街も道も電車も、何も変わっていない。
いつもと違うのは、僕だけだ。


奥歯を噛み締める。
柔らかい感触。


そうだ。
僕はガムを噛んでいたじゃないか。
ガムを噛むなんて、いつぶりだろう。
触感が少し苦手で、普段はガムなんて食べない。
最後に食べた日は思い出せなかった。
少なくとも、こんなに長い間噛んでいるのは、人生で初めてだった。


どうして、僕はガムを噛んでいるんだろう。

一時間くらい前のことを思い出した。


昼下がりの昇降口。
靴を履き替えようと下駄箱を空けたら、ほこりが舞ったせいか咳込んだ。
それをあるクラスメイトの女子が見ていた。
彼女は、黙ってその手を差し出した。

「え? 何?」

小さな手のひらの上に、ミントのガム。

「風邪、引いてるんでしょ?」

僕はミントのガムとにらめっこした。
まず、僕はきっとほこりが舞ったせいで咳込んだだけで、決して風邪を引いているわけではない。
そして、もし仮に風邪を引いていたとしても、あげるのはガムではなくアメではないか?
のどアメが普通じゃないのか?

言いたいことも訊きたいこともあったけど、僕は素直に受け取ることにした。


何故か、彼女は満足そうに微笑み、背を向けると、そのまま階段の方へ小走りで駆けていった。

彼女の背中が消えるのを見届けると、僕はもう一度手のひらのガムに視線を落とす。

不思議な体験をした気がした。
僕はもらったガムを口の中にほうり、ゆっくりと噛み始めた。


柔らかくて、まどろっこしくて、ずるかった。


車内アナウンスが入る。
次に停まる駅の名前を唱えた。


そうか、あれからずっと噛み続けているのか。
かれこれ一時間、ガムを噛み続けているのか。


電車がゆっくりスピードを落としていく。
咀嚼のスピードも落ちていく。


いつも降りるのは、次の駅である。
でも、今日はここで降りよう。
別に意味なんてない。
強いていうなら、駅名が、彼女の苗字だったからだ。


僕はしばらくホームにいた。
青いベンチに座って、青い空を眺めていた。


もう何がなんだか分からない。
自分が自分じゃないみたいだ。
一体、どうしてしまったんだ。

口の中で、ガムが細分化する。
唾液に、少しずつ溶けていく。

そのまま消えてほしくなくて、
ずっとここにいてほしくて、
僕はガムを飲み込んだ。


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