埋葬

東京になんかくるつもりはなかった。

日本橋千疋屋の前を歩きながらひとりごちる。


私は生来几帳面で、やるときめたことはやる、興味のあることはとことん突きつめる。惚れっぽくて飽きやすい。そんな性格だった。

ピンクの口紅よりは赤色が、ロングよりはショートカットが似合う。友達に言わせると「さばさばしていて大人びている」性格は、男の人にはあまり受けない。そんな私でも、度を失うほど好きになったひとがいた。


そのひとには、でも、奥さんがいた。顔は知らないけれど名前は知っている(名前を知ったときは奥さんの輪郭が俄然と浮かび上がったような気がしてどきりとした)。きっとわたしと違って可愛いひとなんだろうと考え始めてしまった夜は、眠れなかった。


度を失ってしまった、とふと気づいたとき、わたしはあのひとがわたしのために借りてくれたマンションにいた。こんなところまで来てしまった、とあのひとが去ってしまったあとの部屋で気づいたとき、わたしは世田谷の端っこにいた。


たくさんやさしくしてくれた。君をはなしたくない、と腕をぎゅうっと締めてくれる瞬間は幸福そのものだった。それでも、気付いてしまった。この時間は永久に不毛だということに。


日本橋は、かつてあのひととデートした街だ。なにもわからなかったわたしたちは、無邪気に手をつないでこの街を歩いた。破滅するしかない未来などないかのように、そんな未来など、はじめから存在しないかのように。この瞬間が永遠だと信じていた。無垢に。


やがて恋の終点にたどり着いたとき、わたしたちはぼろぼろになっていた。傷ついて傷つけて、悲しみの飽和点にたどり着いていた。これ以上ぬるま湯に浸かっていたら後戻りできなくなると、ふたりともわかっていた。


「あのひととの恋を、ほかのなにかのせいにするつもりはない」ーーいつか読んだ小説で覚えた一節を、わたしはずっと心に持っている。あのひととの恋はわたしが自分で選んで陥った状況であると信じて、第三者を介入させたくない。わたしとあのひととの間に、もうこれ以上、誰も入ってこないでほしい。奥さんも、世田谷のマンションも、日本橋も。なにもかもが邪魔だ。頭が痛くなるくらい、邪魔だ。


あのひとと別れてから住んでいるアパートの洗面台で、わたしは今日も赤色の口紅を引く。この街にあのひとはいない。あのひとの面影もない。


あのひとは、わたしだけのものだ。








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