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『怒り』と問題解決

今回は『怒り』という感情と、問題解決について考えてみました。

『怒り』を含んだ思考は濁っていることが多い。

『怒り』に吞まれながら、問題解決を行うことは可能か?ということについて考えていきます。

『怒り』という感情は『私は正しい』という思考と切っても切れない関係にあると僕は見ます。つまり、『正しい私の世界観(意見)』に合致しないから『怒り』が湧く。

その『怒り』は、別の何かを大切に思っていたり、もしくは悲しみの感情から来るものかもしれませんが、少なくともそこには「私の感情や思いをまず尊重してほしい」という要請があるだけで、相手の人への『開かれた心』というオープンで対話的な態度とは対極に位置している態度ではないでしょうか。

『私が間違ってます!』と『怒り』が同じ瞬間に同居しているのを私は見たことがないですが、みなさんはどうでしょうか?『怒り』には、言外の『私が正しい!』が含まれているように思います。

怒っている状態には、自己反省をしたり物事を俯瞰して構造的に捉えたり、他者と対話してまだ見ぬ真実を見ようとするような【理性】が無さそうです。それは、『私が絶対正しい』という、それ以上のコミュニケーションの拒否が起こっているからだと考えられます。だから、例えば比較的論理的・理性的な性格の人が、「論理的・理性的に考えた結果私は怒ってます」と言っていても、それが矛盾していると感じます。なぜなら、論理的・理性的な会話の展開がその後に起こりようが無いからです。

自分が怒っていた瞬間を振り返りながら考えると思い当たるのが、自分がとても感情になっているとき、そのときのコトバは、まぁ少なくとも"論理的"かもしれないですが、"理性的"では無いと思うのです。論理的に正しい結論は言っているかもしれないけど、その発言をすることでその問題が解決されていくと考えた末で発言はしていないのです。もし真に”理性的”なら、「相手に怒りを向ける」だとか、「社会への怒りをぶちまける」よりも、もっとマシな方法=例えば価値観について語り合うだとか、問題の根本的な原因を分析して会話してみるだとか、何かしら『問題を真に解決するための』建設的な方法をとるはずでは無いでしょうか。こうした解決への道筋を立てられることをここでは”理性的”と呼んでいます。つまり、"論理的に"考えた”正論”で怒ったり罵ったりしていても、それで物事が良くなり、実際の問題が根本から解決されるか?と考えると疑問がわきます。そこはやっぱり、感情の勢いにのまれてしまっている自分がいるんだと思うんです。

もちろん『怒り』ながらも、内心では理性を保っていたり、もしくは普段は理性的に考えているような人でも、少なくとも『怒り』に呑まれている瞬間は自ら思考停止に陥り、問題が解決するか?という観点では中途半端な発言を繰り返し、対話の糸口を断っているのではないでしょうか。その状態でも"自分は理性的な人間だ"と思いたいのが人間ですが、客観的にはそうは思えない気がしますね。

ここで思うのは、「理性的な問題解決」と「怒り」の感情はどちらも尊重されてしかるべきですが、根本的には分けるべきなのではないか?ということです。

『怒り』そのものは社会的に封殺・抑圧されている。

ここまで僕は『怒り』を悪いものだと捉えているように思われたかもしれないですが、実はそうではありません。『理性的に怒る』なんてものは無いと思っているだけであって、『怒り』は悪いものだとは思っていません。むしろ『怒り』は社会的にもっと尊重すべきものであり、もっとストレートに表現されるべきだとも思っています。

『怒り』そのものは社会的に封殺・抑圧されていると考えています。「アンガーマネジメント」という言葉に代表されるように、怒ることは大人のすることではないと思われています(特にアメリカ・ヨーロッパなんかで顕著な気がしています)。ただし、そのような”人に怒ってはいけない”というモラルは、地位(ランク)の高い人が低い人に行うときはあまり適用されていないのが現状ではないでしょうか?。つまり怒ることが、本当は地位の高い人間(しばしば年長者)が自分の機嫌を自分でコントロールできないから起こる事象であるのに、”教育のため・統治/管理のため”、という大儀名分で、一部の集団では日常的に”怒る”という選択が行われている現実があります。また反対に、地位(ランク)が低い人が高い人に行う場合にはこの『怒っていはいけない』というモラルは強く適用され、(その場面で)弱者であればあるほどその『怒り』の声(これは弱者であるほどしばしば”社会的な声”ともなりますが)は封殺されていると感じないでしょうか?社会的弱者の怒りは、お前が努力しないからだ、だとか、お前は十分恵まれているだとかの”圧”のもと、簡単にかき消されてしまいます。

しかし、(主に弱い立場の)人が『怒り』を表明しなかったとしても『怒り』は無かったことにすることはできません。封殺し抑圧したところでその内なる『怒り』に対して何の処理・解釈もなければ、心にわだかまりとして残り続けます。そしてそれが気づかないうちに、別の形態をとって不随意的に表に出てきます。

『怒り』という現象の背後には、痛みの経験や何か大事なものを踏みにじられたと感じている感覚などが存在しています。『怒り』の奥には、”悲しみ”や”痛み”が含まれていることが多いとされます。すべてがそうかは分かりませんが、多くの場面でそうなんじゃないかと実感することが多いです。

こうしたことを考えると、人が怒っているとき、「何かの痛みを代弁するためにこの人は『怒っている』んだな」と捉えて、そうした背景の痛みや原因まで探って初めて、怒りにのまれた議論が”対話”へと変化するように促せると良いんだろうなと思います。そして建設的に未来をつくる方へ向かうのではないでしょうか。怒っているときに、その”感情・感覚”への理解無しに、ただその論理展開だけを取り出して議論しても、それはただ議論にもならない議論をやって平行線をたどり続けることになります。つまり、言葉だけを切り取って話すのではなく、雰囲気や言外のニュアンスまで汲み取って話す必要がありそうということです。

理性的な対話と、『怒り』は切り離して考えた方が、どちらも健全に対処できる気がします。仮にそれが同時に存在するとしても切り離した方が良さそうです。(ただしそれによって「怒り」が封殺されない範囲において。)


『怒り』の意義

ただ、ここまでの話を否定するようですが、『怒り』そのものが、問題の解決へと導くものとなるときもあると思います。

例えば「保育園落ちた日本死ね」みたいな発言とそこから巻き起こされたブームは、その『怒り』がマジョリティの抱えている数々の封殺された意見を代弁する発言となり、実際にこの発言をした主婦の方がいる地区ではもう今となっては待機児童問題は無いそうです。このように”声”を上げる人がいるから解決される問題もあります。こうした”声”を封殺していること自体が、社会的な問題で、小さな声でも聴ける社会になっていくことが民主的な社会になっていくことと言えるでしょう。


また議論の「内容」によってではなく、議論の「形式」によって『怒り』が問題の解決に導く場合があります。つまり、その論理展開だとかの議論の内容が優れていて、”論理的に優れている”から解決に向かうのではなくて、その議論が起こったこと自体があるメッセージを発していて(少数派のみえなかった”声”が主流派に届くなど。)、その場の空気や雰囲気の流れとして、”そこまで言うなら仕方ない”だとか、もしくは相手の立場や置かれている状況を”頭で”ではなく”心で”理解することができただとか、何かそのような形での”場”の変化によって、対立 が物事の解決へと導く場合があるということです。ただし、基本的には地位(ランク)の高い人が怒った場合は、ただ封殺が起きただけー-ということもありえますので、注意が必要なように思います。いずれにせよ、特に、普段は妥協と静かな拒否・静かな闘争が横たわっていた場所で、『怒り』が表出し、場を包み込むことは、それはそれで価値があるんじゃないかと思います。


まとめ

『怒り』は『怒り』として尊重され、そこの奥に眠る感情や、痛みの経験に目が向けられるべきだと思います。また、『怒り』を場に出すことで始めて進む問題もあるでしょう。特に家族・友人・仲間・属しているコミュニティなどの場合。

しかし、少なくとも理性的に長期持続的なインパクトを出そうとするのならば、『怒り』という感情は除いて、「本当にそれで問題が解決される」と信じられる施策を理性的に打っていく必要があると思います。

自分の感情の問題と、自分の外の世界で起こっている事象の問題はまずは切り分けて、それぞれをそれぞれで尊重することができれば、それが良い気がします。そうした理性的な対話があって初めて未来への建設的な一歩を創り出せそうです。

最後までお読みいただきありがとうございます。もし何か響くものがあったり応援したいと思っていただけたらサポートいただけると嬉しいです!