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人類共同体の文化の核心 - ヌミノース性について

・自著『創造性を歩く』に収録予定だったけど、スケジュール等の都合で入れられなかった文章を公開します。

 
 



人類共同体の文化の核心 ― ヌミノース性について


0.前置き

ヌミノース性について語るとは、世界の神聖さに対して言語化を試みるという行為となります。これをするにあたってまず始めに触れておかないといけないことがあります。

世界のヌミノース性について分析的に記述する行為は、世界の「深淵」、すなわち非常に奥深く神聖なプロセスに対して言語化を試みるということであり、これは少し間違えると世界の神聖領域を侵す冒涜的な行為となりかねないと考えています。

世界の神聖さは、まずその神聖さそのものとして体感されるべきものであると僕は信じます。つまり現実世界を切り刻む機能である「言葉」を用いて論じるより前に、神聖さはまず言葉や論理以外の表現方法で語られなければならないものであると考えているということです。

しかしそんな考えを持ちつつも、なおここでその神聖さの謎の解明に挑むのは、みずからの「魂の表現」を試みる多くの人が、これからヌミノースな共同体(コミュニティ)の核心を世界各地につくっていくことが世界全体の"治癒"につながると信じており、またそのためには言葉による足場を持つことが不可欠だと考えているからです。

またこの原理解明に最大限のリスペクトと共に挑むことは、私自身の魂の表現にとっても必ずや糧になるだろうという期待もあります。

私が今後「魂の表現者」としての自己を突き詰めれば突き詰めるほど、こうしたヌミノース性について言葉では語らなくなるのかもしれません。ただ、まだ自分に論理的記述に対する興味という、いわば言葉で他者と繋がろうとする社会性の残っているうちに多少なりとも言葉で残しておこうと思います。そこになにか意味があることを信じて。




1.ヌミノース性とは何か

ヌミノース(ラテン語で "das Numinöse")という言葉は、ラテン語で「神威」を意味する"numen(ヌーメン)"を由来とした造語です。プロテスタントの神学者ルドルフ・オットーが独自に作った言葉となります。

『ルドルフ・オットーは、宗教における「聖なるもの」を追求し、その中における合理的な要素と、道徳的な要素を引き去ってもなお残るものに注目し、それをヌミノースという言葉で呼んだ』

ユング心理学入門 p183

こちらの引用文を解説します。

ここで言う「合理的な要素」とは、宗教における論理体系・教義・その宗教が立脚する根拠となっているストーリーと言った思考的・観念的な要素のことを指しています。

また、「道徳的な要素」とはその宗教のもつ文化、規範やルール(  =「〜すべきである」)のことを指しており、これは一見思考的・観念的要素として捉えらないかもしれませんが、こちらもまた言葉で記述され、言葉によって伝わっていく要素として、同様に思考的・観念的要素と解釈しています。

つまり、純粋に身体的・感情的な要素では決してないという意味になります。これらは他者と共有するストーリーとして、宗教的コミュニティの実際的な運営を支える要素として成立しています。

そしてここで言う「ヌミノース(性)」とは、この2種類の思考的・観念的要素を差し引き、ただ体感したものそのままの感覚のこと、及びそのときに観た幻像(ビジョン)的な体感覚があれは、それを純粋に取り出したものを指しています。

このとき、自分が受けた体験に対して、主観的なイメージ世界の中で言語的な意味を様々に付与すると、それは身体の直接体験ではないため、ヌミノース性のある体験(ヌミノース体験)とは言えなくなります。

体験に対するそうした言語的な解釈も差し引いた純粋体験は、わたしたちが日常で体感する深い感動と地続きであり、またそのような体験そのものをズバリ指し示しているのが「ヌミノース」という言葉です。


2. 動的なスピリチュアリティと静的なスピリチュアリティ

個人的に体験された体験に宿る、意味に開かれていて、イキイキとした生命力を感じさせる"ヌミノース性"こそが宗教の核心部分であり、あらゆる宗教はその体感覚を得た体験(ヌミノース体験)が根拠・基軸となってそのコミュニティを成立させており、極論かもしれませんが、実際のところそれ無くして膨大な教義体系の成立も無いと個人的には考えています。

こうした"ヌミノース性"を重視する、精神的な哲学体系や探求を、「動的な(dynamic)」スピリチュアリティと呼んでいます。これが宗教、そしてあらゆる文化すらも支えている要素であると考えています。

「スピリチュアリティ」という少し広い概念の呼称を使っているのは、私たちが宗教とは明確に認識していないような、あらゆる精神世界の教訓・教義、精神的伝統を含め、もしそこに"意味に開かれていて"、"生きる現場で体感される"ことが重視された部分があれば、特にその部分のことは、宗教の核心部分と同等のものであり、同列に重視すべきと判断してのことです。この動的なスピリチュアリティの要素が、宗教コミュニティのみならず、個人の人生や共同体に対しても不可欠なものとして普遍性の高い位置にあるものと捉えています。

一方でそれに対比して、宗教体系や精神的伝統のうちの教義やストーリーの部分を「静的な(static)」スピリチュアリティと呼ぶことがあります。これは先ほどの引用文に登場する「合理的要素」と「道徳的要素」の部分に着目した場合の、精神的な哲学体系・教義体系・ストーリーのことを指します。

ここで静的という言葉を使っているのは、個人的な深い体験であっても、その体験の意味が組織的な論理体系に回収され、何らかの権威によってその意味が判断されたり固定されるなど、意味の可変性が低いという観点で静的と付けています。

静的なスピリチュアリティはそのメリットとして、それが1つの優れた「場(フィールド)」として成立しやすいということが挙げられます。

これは、人と人をつなぎ、成長させる物語装置としてよく機能するという意味です。この言語的な「場」に乗ることによって、人は人生の意思決定の指針を手に入れたり、人間関係に恵まれたりして、人間社会の中を生存していくことが容易になるという効果があると思います。

ただ、ヌミノース体験なくしてはこうした言語的な「場」すらもその基盤を弱くすると思っています。各人に内的に深い体験があり、かつそれを集団として他者と共有できる機会がなければ、言葉は上滑りし、決して人の精神と精神をつなぐ媒介物にはならないと思うからです。また、そうしたヌミノース体験を既存の教義体系に当て込んでしまうと、それは無意識に対する抑圧にすらなってしまい、人が場に対して長期持続的な関係性を持つことが困難になる要因となると考えています。

また、反対に、ひとびとの間で共通のヌミノース体験があるだけで、こうした静的なスピリチュアリティの要素が薄い状態でも共同体(コミュニティ)は成り立つと思いますし、その状態とは人と人が深いところでつながっていることによるものなので、それが常に意味に開かれた場になるという意味でも、より高度な場になると考えています。

静的なスピリチュアリティの利点をもう一つ語りますと、ある教義体系は、世界のある霊的側面に光を当て、ときにこの世界の霊的な構造を比ゆ的に説明しうるものであるという価値をもっていると思っています。世界のどの側面に光を当てるか?は、それぞれの教義体系によって違うと思いますし、その多様性があるからこそ世界はその神秘的側面の多くを人類に豊かに開示してくれていて、いまこの世界の精神的伝統が縦横無尽に世界中を渡るグローバル時代においてわれわれはその果実を多く享受していることと思います。

さまざまな宗教・精神的伝統をみるなかで、それぞれの細かい教義体系が異なっていても、動的なスピリチュアリティの観点を導入し、そこで語られている"体験"とは何か?を見つめることで、そこに統一された筋すら見出すことができると思っており、こうした分析・探究もまた世界が緊密に繋がりだした近現代に本格的に為すことができるようになってきた行為でしょうか。



2.「神は1つであり、そこに至る道は多様」

静的なスピリチュアリティ、すなわちある教義が、絶対的な力を持って人の生に対する最高価値を持っていると私は思っていません。そうした教義は世界の「深淵」へと至る優れたひとつの「通路」として機能しており、その「通路」を介して、私たちが宗教的修行や努力、もしくは信仰という路(みち)を歩くことで、動的なスピリチュアリティ(深淵の世界 / 神話の世界)へと通じることができるのだと思っています。

ただ、この「通路」とは宗教という業界にのみ限定的に存在しているとは思っておらず、スピリチュアルな伝統(精神的伝統)や教義、瞑想等の実践的な方法論、他には例えば器づくりを極める/音楽を極める/料理を極めるなど、そのような技を磨く体験の中でも私たちは同様な「通路」を持つと思っています。何かを極めるような個人的な「熟達」の道は、ヌミノース体験への「通路」として機能し得る神聖な営みとして捉えることができるのです。

また宗教は集団的にその「通路」を確保・維持し、繋いできた伝統があり、それが社会的な存在意義なのだと思います。ただしそれが深淵へと至る「通路」としてどれくらい機能しているかは同じ宗教コミュニティに属していても人それぞれで大きく違うのだと思います。宗教的コミュニティに関わる人々もまた膨大な多様性をもち、百者百様で、各々の人生におけるこのような体験への到達点が様々であると思います。

とにかく、この深淵へと至る「通路」さえあれば、動的なスピリチュアリティの道を歩むことはできると捉えると、必ずしもある宗教コミュニティ/スピリチュアル・コミュニティに属していなかったとしても、宗教的な核心部分に触れ、霊性のさらなる深まりを果たせるのだと考えることができます。そう考えると、「神は1つであり、そこに至る道は多様」というある有名な格言の真意が理解できてきます。それぞれの道の中での霊的な歩みの到達度合いが、世界の霊的側面との親しさに直結しており、そこが肝心であるということですね。

この多種多様な道のどれを歩むかにより、神(=ここではすなわち世界の神話的領域。世界の深層。)のどの側面をその人がよりよく捉えられるか?が決まってくることでしょう。その道の種類の違いによって、ヌミノース性に対するある一定の色/雰囲気/味と言ってもいいような個人の「感触」の微妙な差異が出てきて、その"偏り"によって、ひとりひとりが世界の霊的側面のどの部分をより鮮明に受け取れるかが変わってくるのだと思います。

これが、深層では共通しているであろう人の「感性」の、表層部分の差異であり、それは宗教や精神的伝統がバラエティ豊かであればあるほど人類の霊的集合知のレベルを高めるがごとく、個人の単位でも、この感性の多様さによってその集合知をより豊かにするのだと思います。つまり、感性の種類があるだけ、人の数の分だけ、世界はその霊的側面の新たなる側面を見せるということです。

このような立場に立つと、私たちが新しい人に真の意味で出会うということは、こうして自身の知覚領域の拡大へと直結する神聖なプロセスにもなり得るのです。
 
 

人それぞれ感性の表層部分が違ったり、属するコミュニティや、霊的に歩んでいる道は違ったとしても、それを通して至れる霊性のレベル、すなわち触れることのできる霊的構造の”層”には限りなく同一のものがあると思っています。すなわち、その個人が触ることのできる”空間の深度”(認識の深度)は、どの宗教を信仰しているか、どのような世界観の物語において日常を過ごしているか?よりも、各個人自身の中の、認識の練度によるものであると思うという仮説です。そしてこの認識の練度こそが、ヌミノースな体験による「死と再生」のプロセスを歩むことによって深まるものなのです



3.人類共同体の文化の核心

さて、様々な宗教・精神的伝統に対してその共通項を見出そうとしたのが、冒頭で紹介したドイツのプロテスタント神学者ルドルフ・オットーの考え方であり、私はこの考え方の一部を取り出し拡張することで、ここにグローバル時代における普遍的な精神的要素を見出すことができ、それが今後の世界の文化の土台を作っていくのではないかと考えています。

オットーによるこの"ヌミノース性"という概念の提唱は、人類社会の各所を支えてきた宗教の多様性とそのバックにある民族的多様性をそのままにしつつ、同時にそれがある一点においてグローバルなコミュニティとして手を取り合うことが可能であるという提案としての概念だと感じるのです。

僕の解釈では、ヌミノース性とは、神道、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、中南米やアフリカおよびその他の地域の先住民族の抱える精神的伝統のあらゆる部分に共通する要素であり、「人間であること」「人が集団で生きること」と切っても切り離せない要素であると思うのです。

このヌミノース性とそれを感知する体験によって、各人はそれぞれの生きている「物語」の対立を超えて、その生の核心部分において確かに繋がるコミュニケーションを生むことができるはずで、それが人の世が次なる未来へと向かうことの希望になると思うのです。この対立の超越こそ、私が人間の精神的体験における「普遍」を追求する営みによって見出したいものです。



4. 動的なスピリチュアリティを越えて、「空間の学」へ

そしてこれをスピリチュアリティの話(=スピリット(霊)の話)であるとすることにもどこか気が引けるものがあります。ヌミノース性についての話は、たしかにスピリット(霊)の話をしているわけではありますが、それは私たちの日常的な意識(=自我)の方向から見たときにスピリット(霊)の世界として体験される話なのであり、私たちが日常的な意識を離れて、"スピリットそのもの"としての自己を体験するとき、ヌミノース性とは、わたしたちが対象化し分析するものではなく、私たちそのものであるのだということだと思います。私たちがスピリット(霊)であることはある意味"当たり前"のことなのであり、わざわざそれをスピリチュアリティとして呼んで分析する方が違和感があるわけです。

本当は自己自身である霊性を不必要に対象化し、観察対象として細かく記述することでむしろ自身がヌミノースな体験からひどく遠ざかっていくのではないか?とすら思うわけです。僕はこれは本当は”空間”の話なんだということにしたいと最近は考えています。"空間"であれば、その身近さは対象化の余地を残さないし、私たちは常にそれと触れ、また常にそれそのものとなる可能性を有している。常にそれそのものになれるという空間への態度もまた重要で、それによって自身の視覚的・聴覚的・触覚的な空間体験の多様なアンテナが広がります。

このような態度を養成することにで、すぐ身近に、自己のうちに、外に、この霊(スピリット)と呼ばれるものを体験することを可能にするのです。

宗教体系としての静的なスピリチュアリティを超えつつ、その核心部分をも含む動的なスピリチュアリティは、それを運用し、その道を歩むうえでは、私たちにこの上なく身近な空間についての学問体系、すなわち「空間の学」としてこの世に生まれ替わり、万人のもとに届けられることが良いのではないかと考えます。これは、方法論として、人が新しい観点に気づいたり、そこから発展して自分なりのアプローチを見つけたりするための実践補助論でなければなりません。

そしてこれが、この世界の精神的伝統の様々な物語を織り合わせた上で生きられる1つの現実として「全体性」をもつ指針(決して世界を俯瞰で眺める”地図”ではない)となるのではないでしょうか。世界の生きられる神話的領域にダイレクトに侵入していく補助となるのだと思います。

この"空間"と私が呼んでいるものは、人によっては"エネルギー"または"波"という言葉を使って説明していることもあるように思いますが、私は個人的に"空間"と呼ぶ方が、その豊かさや膨らみを感じ、さらに"空間の内部に入る"と言うとその感覚にありありと迫れるため、「空間の学」と呼びたいと思いました。

とはいえ別に呼称は何であっても、各人にとってリアリティのあるものであれば何でも良いのではないか?と思いますので、「空間の学」という呼称自体が、探求の過程での1つの提案であり、私自身今後その言い方を改める可能性もあります。

呼称は、世界のどの側面に注目し、鮮明にするか?という意味では重要ですが、言葉は常に体感覚の後を追うことでしか生まれてこないので、まだ絶対的な答えを見い出せていないこと自体は健全なのだと思っています。とにかく僕は当面の間「空間の学」と呼びたいようなカテゴリの体験について、各人が同様の体験を言葉にして語り、相互に照らし合わせ、深めることが重要なのであると思います。


 
 
 
 
 
 

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