物質性と意味性との違いについて

ブログを書き始めた私は、ブログとnoteの区別を次のように決めました。

ブログ=読んで欲しいことを書く
note=書きたいことを書く

よって、ここでは書きたいことを書きます。

読んでもあまり得をするような内容ではないので、ご注意ください。

また、本当に書きたいことを書いただけなので、とりとめのない文章になっています。ご了承ください。

この記事で扱う物質

この記事では、まず、こちらの物質、『布』について考えます。

『布』という物質

タイトルからマジメな話だと思って来られた方、幻滅させたらごめんなさい。

これから、非常に下らない例を挙げつつ、割と大切なことを書きます。

例が下品なので、下ネタ等が苦手な方、不快に感じる方はご注意ください。

物質から意味へ

先ほど掲載した『布』ですが、この『布』を見たとき、あなたはどんな意味を持たせたでしょうか?

noteの記事上の画像なので、『布』というよりも『何かの画像』くらいの認識かもしれませんね。

一応、実際になんらかの『布』の画像なので、『布』ということで共通認識を持っておいていただきたいのですが、少なくとも何の『布』なのかが判断できない以上、意味を持たせるも何もないかもしれません。

では、少し視野を広げて、先ほどの『布』の元画像をご覧いただきます。

先ほどの『布』の元画像

フリー画像サイトで適当に拾ってきた画像なのですが、先ほどの『布』はこちらの一部を切り取ったものでした。

はい、そうです。

女性物の下着の一部ですね。

いかがでしょう?

最初に『布』の一部として見たときと、こちらの画像で見たとき、この『布』に対して持った意味は変化しましたか?

冒頭の『布』が女性物の下着の一部だとわかったところで、『布』が『布』であることに変わりはありません。

画像上の話ではありますが、『布』という物質になんら変化はありません。

しかし、人によってこの『布』に持たせた意味は様々かと思います。

私に対して幻滅したり負の感情を抱いた方もいるでしょうし、なんだか嬉しいような気持ちになった方もいらっしゃるかもしれません。

あまり性別によるステレオタイプを持ち出すべきではないかもしれませんが、一般的には読者であるあなたが男性だった場合に嬉しいような感情を抱くことが多いのかもしれません。

喜ぶであろう男性像

このように、物質性と情報性もしくは意味性というのは、イコールではないというのがこのnoteの論点です。

物質性と意味性

女性物の下着として『布』を見たとしても、それは『布』に過ぎません。

これが物質を物質として扱う視点、つまりこの記事で扱う物質性です。

『布』をもっと細かく見ていくと、例えば綿が何%とか、ポリエステルが何%というような、もっと細かい組成として表現することも可能かもしれません。

このような視点で『布』を捉えたとき、それがどのような形状になっていようが意味合いは同じなはずです。

一方、この『布』を『女性物の下着』として扱って、そこに文脈を持たせた場合には、様々な意味が付与されることになります。

先ほどの亀仙人も、悟空やクリリンに『ギャルのパンチー』を持ってくるように幾度となく要求しています。

そこには、『ギャルのパンチー』に何らかの意味を持たせていたという、亀仙人にとっての文脈があるはずです。

亀仙人の持たせた『ギャルのパンチー』も、物質的には『布』であることに変わりはありません。

しかし、女性が履いている(いた)とか、そこから連想される女性の身体とか、そういった文脈があるから、『ギャルのパンチー』には意味があったのです。

さらには、ウーロンはシェンロンに『ギャルのパンティ』を要求しています。

ギャルのパンティを要求する豚

これはピラフがシェンロンに願いを言う前に何か願いを言わなければならないという文脈があった上での出来事なのですが、やはりここでも『ギャルのパンティ』に意味があったから思い浮かんだものと思われます。

このように、下着に対して特異的な意味を持たせる人物(豚)像として男性が取り上げられる場合が多いように思いますが、女性が男性物の下着に対してだったり、女性もしくは男性が同性の下着に対しても同様の意味を持たせたとしてもおかしくはないでしょう。

リハの文脈で考える(ここから話が飛躍します)

何をマジメに書いているのかよくわからなくなってきたので、話を一気に飛躍させていきます。

物質性と情報性もしくは意味性が乖離する場面というのは、『布』や『ギャルのパンティ』に限ったことではありません。

例えば、こちらの本。

読書猿さんの『独学大全』ですが、788ページもある分厚い本です。

一見すると、鈍器としても扱えてしまうような四角い形状となっています。

これを日本語の読める人間が見ると、『本』『読むもの』『知識が得られるもの』という意味を付与することができます。

これを日本語の読めない人間が見ると、『本』という意味付けはできますが、『意味のわからないもの』『自分にとっては読む価値のない・読めないもの』という意味付けになるでしょう。

また、これを見たのが猿だった場合、『食べられないもの』(食べれるかもしれないけど)、『武器』『破いて遊ぶおもちゃ』のような意味付けがされるかもしれません。

さらに、これを見たのが手を持たない蛇だった場合、『障害物』とか『地面の一部』のような意味付けになる可能性があります。

このように、動物は自身の持つ能力によって、対象となる物質に様々な意味を持たせます。

このような話は、ユクスキュルが『生物からみた世界』で書いていますね。

このような話を一般の方が見聞きした場合、「へ〜、そうなんだ」くらいの印象かもしれませんが、我々のような医療やリハビリテーションに関わる人間は、リハビリテーションに結びつけて意味を持たせることができるはずです。

例えば、脳卒中片麻痺の方は、その能力障害によって、目の前の物質に発症前とは異なる意味を持たせているかもいしれない、といったような。

例えば、右片麻痺で包丁が持てない方であれば、目の前に置かれた包丁もリンゴも、それまでとは違う意味を持つことが想像できるでしょう。

包丁もリンゴも、物質としては変化ありません。

脳卒中発症というイベントを契機に、その道具や対象の意味が変化したのです。

情報に付与する意味(もう少し飛躍します)

このコロナ禍で、非常に多くの情報が行き交っています。

例えば、ワクチンを打つべきか否かというような判断の根拠となる情報です。

肯定派も否定派も、それぞれ自分達の主張が正しいものとして主張します。

ここで興味深いのは、肯定派と否定派が同じデータから真逆の結論・主張を導き出している場合があることです。

正統な方法で取得された信頼性の高いデータというのは、現実をある形で要約したものとして存在します。

そのデータ自体はあくまでもデータであり、物質に近いものと考えることができます。

このデータというものに、人間は様々な意味を与え、解釈を加えます。

データ自体は悪くないのです。

そのデータに我々人間が付与する意味が多様であるが故に、同一のデータから真逆の結論を導き出すということが有り得るのです。

例えば(エビデンスを重視する)医者や医療者は、客観的なデータや論文から、疫学的・統計的に有効な方法を是とした意見を言うでしょう。

一方、疫学的・統計的な視点よりも個々人の思いや感情を重視する人は、医者や医療者が主張するような意見を是としません。

そして、医者や医療者が自身の利益のためにそのような主張をしているという意味付けを行い、反対意見をより強固なものにしていきます。

このような意味付けの多様性が、コロナ禍で大きな分断を招いたと考えます。

どちらが正しいとか間違っているといったものではなく、目の前に広がる物質世界に対して異なる意味付けを行ったというだけの話なのに、人間は自分と違う意味付けを行った他者を否定してしまう傾向があります。

戦争なんかも、元を正せばこうした意味付けの違いによって起こっているのではないでしょうか。

まとめ

『ギャルのパンチー』の話で始まり、『コロナ禍』と『戦争』の話で終わるという、訳の分からないnoteになってしまいました。

本当に書きたいことを書きたいように書かせていただいたのですが、もしも誰かの何かに役立てていただければ幸いです。

きっとこのnoteに対して読者のみなさんが持たせる意味というのも、多様であるはずですから。

追記

さきほど紹介したユクスキュルの『生物からみた世界』ですが、AmazonのKindle Unlimitedで無料で読めるのですね。

興味ある方はどうぞ。


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