見出し画像

『ファスト教養』セルフライナーノーツ2023 - 結局あの本は「誰」に向けて書かれたのか?

おかげさまで『ファスト教養』2022年結構広がりました

いろんな場所で取り上げていただいてます。朝日新聞で磯野真穂さんに「今年の3冊」として挙げてもらったりしました。

何かしら世の中に一石を投じるものになれば…と思っていたので、こういう反響は嬉しいです。明らかに過去の2冊とは違う広がり方をしています。

ただこれはたっちレディオでもしゃべったのですが、『夏フェス革命』『日本代表とMr.Children』とやっていることは一緒で、「何かしらのコンテンツを媒介にして社会の動きを言語化する」というコンセプトは一貫している認識です。

嬉しい波及効果

読んでいただいた方にとって何らか響くものになっていれば嬉しいとはもちろん思っていましたが、ここから「触発」される方がいたのはほんとに書いてよかった感があります。

やっぱりコロナ禍のここ数年はすごく気が滅入っていて、あんまり世の中に打って出るモードにはなれなかったんだけど、レジーさんの本を読んで「やっぱりこのままじゃ引き下がれないな」って思いました。

いち読者として、宇野さんのスタンスを刺激できたのだとしたらマジ光栄です。こういう声はちょこちょこ聞くので、何らか人の役に立ったかな…と

結論部に対する指摘

多くの方に気づいてもらったことでまあいろんなことも言われるわけですが。
正直聞く価値なしというか、この本が読まれて悔しいでしょうけど頑張ってもっといいもの作ってくださいね、的なやつは置いておくとして(こういう人たちをもっとイライラさせるために頑張りたいと思っています)、自省を促されたのはやはり6章に対する「言ってること合ってるかもだけどそれってほんとにみんなできますかね?そりゃあなたは"好きが大事"の意味は分かるかもだけど…」(意訳)というタイプの指摘ですね。

この辺の中で出てくるのが代表例でしょうか

書いているときは残念ながら思い至らなかったことで、ここに貼った「ゆる言語学ラジオ」で語られているような文化資本に関する問題に目を向けるきっかけにもなりました。

ただ、本が出てから3か月以上経っていろいろ考えてるんですけど、現時点での結論として「この本がそういう佇まいになるのは仕方ないし、そもそもここで指摘を受けているような"わからない人"に向けて書いたわけじゃないんだよな…」という感じに自分の中ではなっています。

出自およびこれまでのディスコグラフィーからの自己分析

すでに知らない方も多そうですが、自分の考えをいろんな人に知ってもらえるようになった発端は2012年に開設した個人ブログで、そこではkenzeeさんが書いていたブログの対談形式をパクっていました。
ここでやっていたことの基本は「自分が読みたいものを書く」。当時はいわゆるロック批評の限界が国内で見えてきた時期というか、フェスの身体性に言葉が劣位になる、アイドルなど「ロックバンド」とは違うフォーマットの音楽を従前の形式だと語れない、そもそも紙の雑誌というメディア自体に無理が出つつある…みたいな状況において、自分の生理に合った読みたいものがない!だったら自分で書くしかない!がスタート地点になっています。

で、『夏フェス革命』『日本代表とMr.Children』もその延長線上で書かれたものです。そもそも『夏フェス革命』はブログで展開していた話のまとめ的な意味合いがあり、『日本代表とMr.Children』については「90年代の話するのにミスチル語られなさすぎじゃない?自分探し論やるのにエヴァの話ばっかりになるのは、当時そういうの好きだった人が語る側に行っているからだけなのでは?」みたいなフラストレーションに対するアウトプットだったりします。

先ほど『ファスト教養』について<『夏フェス革命』『日本代表とMr.Children』とやっていることは一緒で>と書きましたが、これは本を書くスタンスについても同様。つまり、『ファスト教養』も「自分が読みたいものを書く」が貫かれた本です。なので、そういう意味では6章で書かれた「解毒」もあくまで「自分基準」のものなんですよね。

だから、「これだとわからない、伝わらないのでは?」に対しては、対話を拒否するのであれば「いや、これは自分のために書いていて、自分はわかるので、そんなことを言われても困る」で実は終わってしまう話だったりもします。

「自分が読みたいもの」に反応する人がいるはず、という思い込み

一方で、商業出版にその姿勢持ち込んでいいの?的なことを思う人もいるかもしれませんし、先ほど紹介したような指摘はこの本が遠くまで届き得ると思っていただけたからのものだと(勝手に)思っています。

もちろん僕も「自分以外の人がわからなくてOK」と考えているわけではないです。本に書いたことを必要としている人がいるはず、と信じていたからこそ書き上げられたとも言えます(6章を書くのは本当にきつかったので…)。実際、「終わり方も含めてオールタイムベスト」くらいに言ってくださっている人もいて、その思い込みもあながち間違ってなかったかも…と感じています。

本の中でもいくつかの箇所で書いていますが、あの本が語りかけていた相手は「はな恋の麦くん」であり、「2004年の自分」でした。

5章で書いた『はな恋』論の原型になった記事

社会に出てもともと好きだった文化との距離が離れて、でも会社で「ビジネスパーソン」としてちゃんとしないといけない。両方に問題意識があって、現状両方ともしっくりこなくて、でもほんとは両方何とかしたい。
この悩み自体が「贅沢な」「強者の」ものというのは上の方で紹介している記事などで言われている通りではあるかもしれないのですが、自分含めてその悩み自体が実存に大きく影響している(いた)人たちは少なくないボリュームでいるんじゃないか。「自分たち向けの言葉がない」ことに意外と困っているのではないか。そういう人に何か伝えられることはないか。

書いているときにはちゃんと言語化できていなかったのですが、『ファスト教養』の根底にある問題意識はそういうものだったんだろうなと今改めて感じています。

逆に言えば、その外側の人に対して自分が言葉を発したところで、通り一遍の嘘っぽい話にますますなっていくだろうなと… ここは自分の筆力と想像力の不足によるのかもしれませんが、リアリティを持てないことにリアリティのあるオピニオンを出すのはやっぱり難しいです。

ある種の「自伝」としての『ファスト教養』

ある現象が「いかに準備されてきたか」を語りたい、というのはたしかにあるかもしれません。自分がこれまでに出した『夏フェス革命』(blueprint、2017年、改定版2022年)や『日本代表とMr.Children』(ソルメディア、宇野維正との共著、2018年)もそうですが、現象を論じるときに「誰がいつ何を言っていたか」、「その時期どんなメディアが出てきたか」などを並べながら検証するというアプローチは一貫している気がします。
ただ、どうしてもそこで自分の話を入れたくなっちゃうところがあるんですよね。僕自身が音楽雑誌の『ロッキング・オン』で育ってきたからかもしれないんですが(笑)、「自分自身がその現象をどう体験してきたか」という視点を混ぜて語りたいというか。

https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/regista_inada/21947

稲田さんとの対談でこんな話をしましたが、『ファスト教養』は客観的な本では全くなくて(そもそも「客観的な本」なんてものがあるのかわかりませんが)、著者が見てきた世界がベースにある本です。以前飲みの席で「あの本って自伝みたいなもんなんですよね」とか言っていたのですが、そういう意味では「勝間和代は自分の話しかしない」という3章の小見出しが実はこの本にブーメランとして返ってくるという…(いや、『ファスト教養』は自分の話"しか"ではないはず)

この書き方だと本としての限界を作ってしまう一方で、届いてほしい人にはそのメッセージが深く届くという二面性について『ファスト教養』を通じて肌で理解できました。そしてこのスタンスは今後も変わらないかな~(なぜなら書き手としての出自につながっている話なので)とも思っています。

というわけで引き続き『ファスト教養』よろしくお願いします

「2022年はコスパ・タイパについて語られる年だった」的な話もちょいちょい出ていますが、そういう世相を振り返るうえでこの本はいい感じに仕上がっていると思います。

また、さっき書いたような「仕事と趣味の狭間で悩んでいる人(世代問わないけど主に20代~30代)」には確実に刺さるはずですし、逆にこの本が届かない場所に対するコンテンツを作る(とまではいかなくても何かを考える)ための踏み台としてもちょうどいい本になっていると思いますので、未読の方はお正月休みにぜひよろしくお願いいたします。


もうしばらくしたら千葉雅也さんとの対談記事もおそらく出るはず…


もし面白いと思っていただけたらよろしくお願いします。アウトプットの質向上のための書籍購入などに充てます。