3-1 心理療法は専門職であるか
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「奇跡のコース 心理療法」の中に「心理療法は専門職であるか」というパートがあります。
気を引くサブタイトルではありますが、内容に照らすと、少々、不適切にも思われます。
このパートで最も大事なのは「どういうときに癒しが起きるのか」だからです。
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興味深いことに、未熟なセラピストであっても、ホーリースピリットが癒しに入る妨げにはならないと、セラピストを擁護する内容になっています。
実際に、傲慢な、利己的な、無関心な、不誠実なセラピストでさえ、機能することは可能だと(!)。
※これらの条件がすべて揃ったセラピストの場合は無理かも、と思ってしまいますが…(笑) 。
ただ、癒しが起きるまでの時間には差が出るでしょう、と。
癒しの条件は一つです。
裁き = 判断、ジャッジメントをしないこと。
別の言葉でいうと、咎めの代わりに赦しを与えること。
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これ、意外と難しいですよ?
いわゆる心理査定も、慎重に扱わなければ、相手に信頼されないでしょう。
信頼関係を構築する上で、心理療法家は査定のようなことはしないほうが、効果的な癒しを起こせるのではないかと思います。
公認心理師や臨床心理士が、単に医師の負担軽減のために利用される状況では、癒しが起きるのは難しくなるでしょう。
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そして、もう一つ、勘違いしてはならないことがあります。本当に心の不調を治すのは薬ではないという認識は広がりつつありますが、セラピストやカウンセラーが治すものでもない、ということです。
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では、内容の要約(訳)になります。
「奇跡のコース 心理療法」
第三章 心理療法の実践
1 心理療法は専門職であるか
〜 癒しが起きるとき
心理療法は専門職でしょうか? 厳密にいえば「ノー」です。心理療法は万人が関わるものだからです。誰もが自分の人間関係において、セラピストであり、患者でもあります。しかし実際には、主な機能として、自分自身を何らかの癒しに捧げている人たちがいる、ということは可能です。治療を専門とする職業です。
専門的なセラピストが、セラピストになるために学んだカリキュラムはおそらく、癒しの真の原理について、ほとんど、あるいはまったく教えてくれなかったはずです。実のところ、そのカリキュラムは、癒しを不可能にする方法を教えたに違いありません。教えのほとんどは、判断 / 裁きのカリキュラムに従っており、セラピストを審判者にするのがねらいです。
癒されていないヒーラーは傲慢であったり、利己的で無関心であったり、不誠実であったりするかもしれません。しかし、癒し手が、癒し手になろうと選択をしたとき、何かがその人に起こったのです。その何かで十分です。
「目覚めて、喜びなさい。あなたの罪はすべて赦されているからである。」これが、二人の人が互いに与えるべき唯一のメッセージです。
患者とセラピストの関係から、何か善きものが生まれるはずです。
癒しは、セラピストが患者を判断することを忘れた瞬間に生じます。この地点に達することのない関係もあります。自分が受け取れる以上のものを受け取れる患者はいないし、自分が与えられる以上のものを与えられるセラピストもいません。
癒しが生じるのは、判断 / 裁きが止むときです。そのとき、癒しの難しさには序列がないことが理解されます。これは、癒されたヒーラーにとって、不可欠な理解です。
ほとんどの職業的セラピストは、旅の初歩的段階が始まったばかりのところにいます。
セラピストは、自分の役割を誤用したくなる誘惑の大きい道を選んだわけですが、もし自分に与えられていない機能を引き受けるという誘惑を逃れたら、平安への障害を素早く通り抜けることができます。またセラピストは、自分と患者の対等性を認識しなければいけません。
防衛しないセラピストは神からの強さを身に着けていますが、防衛するセラピストは自らの救済の源を失っています。しかし、セラピストが見ることも聞くこともしなかったとしても、そのことはホーリースピリットを制限しません。ただ、時間の中では、癒しに大きな時差が生じます。
以上です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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