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2-6 癒しの定義


ご訪問いただき、ありがとうございます。

第二章 心理療法のプロセス 
6 癒しの定義 要約(訳)です。

ある意味、クライマックス!

・・・・・

ここで言われていることは、かなり厳しいと思います。

でも、究極的には、それが真実なのでしょう。

人間は、すべて病んでいるともいえます。(そうでないと、生まれて来ない)

それでも、ベストを尽くしなさい、というメッセージです。



では、ココから…


心理療法のプロセスは、単に赦し(ゆるし)であると定義できます。いかなる癒しも、それ以外ではあり得ません。赦そうとしない者は、自分が赦されていないと信じているので、病んでいます。

癒しの歌の調べを聴くことは可能ですが、まず、咎めの歌の真実性を疑問視する意欲がなくてはなりません。

耳は解釈するのであって、聞くことをしません。目は再現するのであって、見ることをしません。

五感が運んでくる証言には、ただ一つの目的があります。すなわち、攻撃を正当化し、赦そうとしない心の正体を、認識されないままにすることです。あからさまに見られたなら、これは耐えがたいものなのです。

赦そうとしない思いが認識されないとき、それがまとう形は「何か別のもの」のように見えます。そして、その「何か別のもの」が恐怖を引き起こしているように見えるのです。しかし、癒されることが可能なのは、その「何か別のもの」ではありません。

病気は多くの形を取りますが、赦そうとしない思いも同様です。病気がまとう形態は、赦そうとしない思いがまとう様々な形態を再現しているにすぎません。というのも、その二つは同一の幻想だからです。

思いは病気に忠実に翻訳されるので、ある病気の形態を注意深く研究すれば、それに表象されている赦そうとしない思いの形を正確に指摘できるでしょう。しかし、これがわかったとしても、治癒をもたらすことはできません。

治癒は、ただ一つの認識によってのみ達成されます。赦しのみが、赦そうとしない思いを癒し、赦そうとしない思いのみが、病気を引き起こすことができる、という認識です。

この認識が、心理療法のゴールです。それはどのように達成されるのでしょうか。

セラピストは、自分の中の癒していないすべてを患者の中に見ます。それにより、それらを直視する新たな機会を与えられ、再評価して、赦すことが可能になります。患者はセラピストの罪(罪悪感)が投影されるスクリーンであり、セラピストがその罪を手放すことを可能にします。

誰も一人だけでは癒されません。この言葉は、自分をセラピストと見なしている者の誰もが、何度でも繰り返して思い出すべきものです。彼らの患者たちを、赦しを運んでくる者として見なすこと以外はできません。患者の中に見られ、セラピストの中に受け入れられる無罪性の証拠は、両者の心に一つの聖約を差し出します。


以上

参考文献 : 「奇跡講座」中央アート出版社ほか


「コース」では、広い意味では、人間はみなセラピストであると同時に患者でもあるという立場を取っています。

だから、「一人では癒されない」というのは、不調を抱えたら必ずセラピストのところへ行かないと癒されないとか、必ずクライアントをもたないと癒されない、といった意味ではありません。

罪という意識は、自分を責めるのであれ、他者を責めるのであれ、普通は人間関係の中で生じるので、

それを undo するのも、人間関係の中で行うということでしょうか。

誰かの何気ない一言でホッとするとか、自分も誰かを元気づけたりとか、そういうことも癒しと考えてよいのではないかと思います。


お読みいただき、ありがとうございました。

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