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私の昭和歌謡史:歌は世につれ、世は歌につれ(1980年代)

■ 80年代、新たな世界へ

1980年(昭和55年)はソ連のアフガニスタン侵攻から始まった。
その影響もあり、モスクワオリンピックはボイコットされた。1985年(昭和60年)には日航機墜落という衝撃的な事件も起こっている。1987年(昭和62年)に頂点に達した「バブル景気」という魔物は’80年代が終わる年頃から崩壊へと向かい、消費税が導入されるも構造不況の時代が始まる。奇しくも80年代最後の年である1989年(昭和64年/平成元年)は、昭和の終焉、天安門事件と東西冷戦体制の象徴であったベルリンの壁崩壊が重なった大きな転換点となった年で、新しい時代の到来を予感させていく……

80年代は、フォークからニューミュージックへほぼ移行し、ようやく市民権を得て全盛期を迎えることになる。また、「バブル」という言葉に代表される「軽さ」や「享楽的イメージ」に引きつられて、アイドル黄金期を迎える。しかしながら、ヒット曲は量産されても、音楽が消費されるスピードも驚くほど速くなった結果、「歌謡曲」の時代は’80年代前半にピークを迎え、歌番組も後半には終了した。音楽媒体は、カセットプレーヤーからCDプレーヤーへ急速に置き換わっていくが、インターネットの登場にはまだ時間があった。

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① 杜の都「仙台」へ

医師としての新しい生活が始まった。一人前の臨床医となるための最初の十年である。今と違って、働き改革も何もあったものではない。働き詰めの毎日で、「ドラマは夜に起こる!」 ― 医療スタッフが少ない深夜帯に病院に残って頑張っていれば、救急患者を受け持つことができ、手術を経験できる。同世代の医師仲間の多くはそう思って、早く一人前になるために、昼夜を問わず頑張る毎日が過ぎていった。したがって、学生時代と違って、腰を落ち着けて音楽を楽しむという余裕がなかったのが実感である。

初期研修の一環で、3年目の1982年(昭和57年)に国内留学をするチャンスが与えられ、「杜の都、仙台」で生活することになった。温暖な気候の西日本地域に長く暮らしてきた私にとって未知の東北地方である。学生時代に北海道旅行をした際、東京から夜行列車に乗ったので「北に向かう」実感は味わえた。石川さゆりが歌ってヒットした「津軽海峡冬景色」(’77) の世界である。だが、生活するとなると別物である。

5月末、仙台に向かう。東北新幹線はまだ開通していなかったので飛行機を利用しての移動である。お世話になる予定のクリニックから迎えの車が来てくれて、そのまま仙台市内に向かった。新緑が眩しい。噂通りの「杜の都」である。その日は自分たち夫婦のために病院裏に改装された築40年の一軒家にスタッフが集まってくれ、歓迎会をしてくれた。看護師見習の子が歌う民謡(長持唄?)は、民謡歌手を彷彿とさせる歌声で、「とうとう、遠い土地にやってきたな」と感慨に耽った夜だった。

夏が過ぎる頃には、同僚の先生たちとも打ち解けることができるようになった。初秋の広瀬川の河原で「芋煮会」を楽しむ。「青葉城恋歌」(’78) に歌われている「広瀬川、流れる岸辺……、瀬音ゆかしき杜の都……」の緑豊かな風景が懐かしく思い出される。

せっかくの東北だから、「雪見酒」を一度は経験してみたいと思っていた所、忘年会が仙台の奥座敷である「秋保温泉」で企画された。夜遅くになって雪が降ってきた。幹事役の先生たちと一緒に深夜の外風呂での「雪見酒」と洒落こんだ。雪景色の定番である「北の宿から」(’75) よりも、冷たい雨の情景を歌った「氷雨」(’77) がなぜか浮かんできた。

青森や秋田の北東北地方に比べ、南東北の冬は厳しくないと言われている。それでも、晩秋から早春までの寒さは身にこたえる。その分、「雪」景色が中心の美しさはなかなかのもので、やはり演歌には「冬」がよく似合う。

② ウォークマンとカーステレオ

1983年(昭和58年)、一年間の研修を終えた。

医師としての経験が増すにつれ、重症患者の受け持ちが増えていった。自宅へ帰るに帰れず、病院内に泊まることも少なくなかった。そういった時には、気分転換に流行りの音楽を聴きたいとの思いから、持ち運びができるプレーヤー ― そう、小型化・軽量化・薄型化を可能としたWalkman IIを購入することにした。(写真6)
「音楽を携帯し気軽に楽しむ」という新しい文化を、自分も享受することができるようになった訳である。

写真6:Walkman II (左)  
写真7:カーオーディオ (右)

また、80年代には、いわゆる「カセットテープ」と呼ばれる「コンパクトカセット」の再生ができるカーオーディオが普及する。(写真7)

カーオーディオからは様々な楽曲が流れてくる。

70年代後半の「花の中三トリオ」に続く80年代トップスリーのアイドルは、松田聖子「裸足の季節, ’80」、中森明菜「スローモーション, ’82」、小泉今日子「私の16歳, ’82」で、男性グループといえば、この頃からチェッカーズ「ギザギザハートの子守歌, ’83」が登場する。細川たかし「北酒場, ’82」、五木ひろし「長良川艶歌, ’84」、吉 幾三「雪国, ’86」を男性演歌歌手の代表とすれば、岩崎宏美「聖母たちのララバイ, ’82」、高橋真梨子「for you…, ’82」といった歌姫たちのカーステレオから流れてくる歌声も、実に心地よいものだった。

カセットテープの登場により、手持ちのレコードやラジオから録音した音楽を自分好みに編集し、ドライブ中のBGMとして楽しむという文化が生まれた。

私も空いた時間を利用して、好きなアーティストのカセットテープを編集したが、LPレコードとCDの間に、カセットテープ形式で作品集が発売された時期がある。

’70年代は、吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫といった自分より少し上の世代が伝える様々なメッセージソングに強く影響を受けたが、80年代は私と同世代の音楽を好んで聴くようになった。サザンオールスターズ「YaYaあの時を忘れない」(’82)、竹内まりや「元気を出して」(’84)……うまくいかなかった時や辛かった時に、これらの歌には自分を励まし、自分の背中を押してくれ、自分と並走してくれている感が強かったためであろう。

③ Forest city カナダのロンドン市へ

1989年(昭和64年/平成元年)の年が明けるや、昭和天皇がご崩御され、時代は「昭和」から「平成」へと移り変わった。その数日後に、美空ひばりは「川の流れのように」を発表した。同年の6月に逝去されているので、結果的にはこれが遺作となった訳である。

私は春頃から海外留学の話が具体化してきて、8月末に日本を離れることになる。アメリカ大陸東部の五大湖に囲まれたカナダオンタリオ州のロンドン市(仙台市と同様にForest cityと呼ばれていた)という学園都市への留学であったが、日本人をほとんど見かけなかった。

今でこそ、インターネットで世界中が繋がっているので、世界のどこにいても日本の歌を聴くことができるが、この時にはそういう環境になかった。むしろ、英語での生活環境にどっぷり浸ろうと思っていたので、カーラジオから流れるオールディーズ専門のFMチャンネルを積極的に聞いたものである。

不安の連続であった海外生活にも少しずつ慣れてきた。研究室の仲間とも仲良くなって、初冬を迎える頃には実験も軌道に乗ってきた。アメリカ大陸では、クリスマス休暇が終わると元日の翌日からもう仕事が始まるので年末年始は結構あわただしい。日本では恒例行事となっている「紅白歌合戦」をすっかり忘れていた。

正月を10日も過ぎた頃、日本から小包が届いた。医学博士の論文指導をして頂いた教授から、1989年(平成元年)の「紅白歌合戦」が録音されたカセットテープが送られてきたのである。(写真8)
「たまには日本を思い出して頑張りなさい」とのメッセージだったのだろう。日本からのサプライズは、心のこもった実に嬉しいプレゼントとなった。

写真8:「紅白歌合戦」が録音されたカセットテープ

年明けの二月になって、留学先での指導教授に大病が見つかり、あっという間に帰らぬ人となった。研究室や大学だけでなく、州をあげて彼の突然の死を嘆き悲しんだ。私の研究は他の教授がサポートしてくれることになったが、実験結果の解析がこれからというタイミングでの出来事に呆然とするしかなかった。「結果を出して、日本に帰ることができるか?」…窓の外は雪景色。黄昏時の研究室で独りぼっちになった時、「川の流れのように」の歌詞が頭の中で流れてきた。

… 知らず知らず歩いて来た 細く長い この道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える …

「歌は世につれ、世は歌につれ」の通り、「昭和」という時代を閉じたこの歌は、「1989年が時代の大きな転換期であった」ことを鮮明に記憶させている。しかし、それ以上に、異国にいる自分には、望郷の念を強くさせる唄だったのである……


 


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