過敏と不器用のハザマで死にたかった話

あいまいな記憶だが、気になり始めたのは小学校に上がってからだった。
自転車を漕ぐときにあたる強風
教室でたなびくブラインドの音
授業中、聴こえてくるコソコソ話しや周囲の人の貧乏ゆすり
夏の扇風機の機械音
そんな些細なものに気をとられて、じっと座って話しを聞いていなければいけない状況で集中力を持続することが出来なかった。

自転車を漕ぐと、強風や周りの景色に気をとられ、注意散漫になり、これまでに10数回以上転倒事故を起こしている。
授業中は、長時間集中を保つことが出来ず、プリントに落書きをしたり居眠りをしたりして、内容が全く頭に残らずに過ごすこともあった。
みんな、同じような感覚を持っているものだとばかり思っていた。

就職してすぐの頃、失敗ばかりだった。
雑談している間に、数分前に聞いた大事な業務内容を忘れ、聞き違いをして、思い込みで全く根拠のない処置をしてしまう。
マルチタスクになると、混乱して、優先順位をつけられずに普段しないようなケアレスミスをしてしまう。
それでも、メモを頻繁にとって自分でマニュアル作りをすることや、一度文字に書き起こして順番を考えてみることなど、対策をとって必死に食らいついて働き続けていた。
それだけのことなのに、自分の中では、相当なエネルギーを消耗していて、連勤が続くと休日は死んだように丸一日寝ていた。
でも、職場とプライベートとのメリハリがあったから、切り替えが出来て、6年間働き続けられていたのだと思う。

結婚して、子どもが1人産まれてからは、育児が楽しくて、もっと喜ぶ顔が見たいと子ども中心に頑張ってきた。
頑張れば頑張るほど、笑顔を見せて、広げた腕に飛び込んできてくれる。
見返りなんていらない。無償の愛ってこういうことなんだと理解できた。
2人目が産まれて、風向きが変わった。今までちゃんとできてきたことができない。2人同時に見守って、今までしてきたことと同じようにしてあげなければいけないと思うと、思うように育児が出来ず苦しかった。
育児がままならないのに、家事も満足に出来ない。仕事にも精が出ない。
どこにも自分の居場所がないような気がして辛かった。
否定されて、反抗されて、労いの言葉もない、当たり前のように家業をこなさなければいけない毎日が、とても苦痛で、終わりのない暗闇のなかを彷徨っているようだった。

「お父さんは何でも出来てかっこいい」「お母さんは何も出来ないね」
そんな長男の言葉が時に残酷で諸刃の剣のような鋭さで、脆くなった心の奥を刺してくる。
次男は思い通りにいかないと泣いて喚いて、髪を引っ張り食べ物をまき散らす。兄弟喧嘩が始まると、どちらかが負傷して、家事中の私の元へ泣きながらやってくる。
子どもの希望で入園した幼稚園の送り迎えがあるため、業務時間が制限される。子どもが体調不良で仕事も急に休まなければいけない日がある。他のスタッフよりも融通を求めているのにも関わらず満足に仕事が出来ない。
家事にも、育児にも、仕事にも専念できず、メリハリのない毎日で疲れ切っていた。生きているのにも疲れるほどだった。
実際に命を絶とうとしたこともあった。

ADHDだと発覚したいま、ずっと昔から抱えていた悩みの点と点が線でつながったようで、肩の荷が下りた気がした。
出来ないことは、無理に頑張って改善しようとしなくて良い。
自分がどんなことに影響されて、注意が欠如してしまうのか
そこを理解して、なるべく刺激を減らしながらリフレッシュできる方法を模索していくことの方がよっぽど有効的であるということがわかった。
出来ることをいくつも探すより、しなくて良いことを見つけ出すこと。
そして、自分が心からやりたいと思う気持ちを行動に移していくこと。
いつか、障がいを個性と思えるように、そう考えを改めていけたらと思う。


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