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ビジョンと社員をつなぐ!強くて温かい組織ができるまで【第一話】

人材は会社の宝。そう思ってはいるけれど、何をどうすれば、より良い人材育成ができるのだろう。会社のミッションとビジョンを掲げれば「できあがり!」ではなく、それを社内に浸透させ、社員一人一人の幸せと方向を合わせていく。宇都宮市を中心に美容室やエステサロンなど約20店を展開するビューティアトリエグループ代表の郡司成江さん(58)は、そんなファミリービジネスを実践しています。「強くて温かい組織」ができるまで。郡司さんの歩みを追いかけていきましょう。

ビューティアトリエグループ代表、郡司成江さん
ビューティアトリエグループ代表、郡司成江さん=宮本明登撮影

「強くて温かい組織」の手掛かりは経営方針書に

「未来を創る魔法の書」。郡司さんは毎年、こんな名前の経営方針書をまとめ、会社のビジョンや、働く上で大切にしてほしいことを伝えています。

強くて温かい組織の手掛かりを得るために、まずは300ページ近い「魔法の書」から、ビューティアトリエのビジョンを引用してみます。

『家族』として愛を持ったプロ集団で、さまざまな才能が共存し、人に勇気と感動を与え、元気に美しくすべてのお客様・スタッフを応援し、幸せになってもらう『しあわせ創造企業』になる


すてきな言葉が並んでいます。もちろん、それで終わりではありません。

ページをめくっていくと、「しあわせ創造企業」になるために、美容・理容だけでなく、インテリアや雑貨、食の分野に進出していくという将来像が図で示され、顧客層の異なる店舗ごとの「ビジョン」も掲げられています。

例えば、美意識の高い30~50代の女性をターゲットにした「アトリエ デココ店」の使命は「10年後のあなたをより美しく」。カットだけでなく、髪や頭皮のトリートメントに力を入れ、骨格診断を含めたトータルビューティーを提案していくことなど、具体的な戦略と戦術に落とし込んでいきます。

ビューティアトリエグループの経営方針書「未来を創る魔法の書」

子どもの頃、描いた夢を覚えていますか?

こうした内容は、どこか他の企業でも見たことがあるかもしれません。

ビューティアトリエが特別なのは、ここから先。「魔法の書」の後半は、郡司さんから社員たちへの呼びかけになっています。「子どもの頃、描いた夢を覚えていますか?」「仕事って何だろう?」「逆算思考を身につけよう」「人生の方程式=能力(才能)×熱意(情熱)×あり方(考え方)」……。

なぜこうしたことを書くのかと言えば、会社の経営方針は、経営者が自らの思いを社内に徹底させるためだけにあるのではなく、社員たち一人一人の生き方や幸せに寄り添い、その力を引き出す役割があるという考え方が表れています。

そんな温かな視点を持った郡司さんですが、かつては美容師としての自分の腕を頼みに会社を引っぱろうとして空回りし、どうしたらよいのか分からなくなった時期もあったといいます。郡司さんの旅路をたどる「ファミリービジネス物語」が始まります。

幼少期の郡司成江さん(左)=本人提供

自分のやりたいことを頑張れる人に

母親の田中千鶴さんが宇都宮市でビューティアトリエを創業したのは、「鉄腕アトム」のテレビ放送が始まった1963年。美容室を切り盛りする千鶴さんの帰宅は、高校の先生だった父親の操さんよりも遅かった。

友だちの家に行くと、お母さんが手作りしたお菓子が出てくるのに、うちは違う。たまに、もらい物のお菓子や果物があっても、美容室で働く「お姉さん」たちにあげてしまう。社員寮に遊びに行くと、美容師のお姉さんたちが千鶴さんのことを指して「ケチだよね」「厳しいよね」という声が聞こえてきた。

「夜遅くまで頑張って働いているのに文句ばっかり言われている」。子供心に割に合わないような気がして、小学生の頃の「将来の夢」は専業主婦だった。

頑張れば頑張るほど楽しくなる。そのことを知ったのは、中学、高校で打ち込んだ陸上競技だった。人の陰に隠れるのではなく、自分のやりたいことを見つけて、頑張れる人になりたい。ビューティアトリエを継ごうとは思っていなかったけれど、大学は経営学部を選んだ。

大学時代の郡司成江さん=本人提供

10年後なりたい自分になる…ヴィダルサスーンへ

「メークさんになろう」。大学に入って見つけた「自分のやりたい」は、雑誌やファッションショーのモデルたちを美しく飾るメークの仕事だった。

といっても、メークさんの仕事は大きく分けて二つある。お化粧をするメーキャップと、華やかな髪形をつくるヘアメーク。大学と並行して、専門学校に通ってメーキャップの技術は身につけたものの、ヘアメークは何となく学ぶ気が起きなかった。

美容室の家に生まれたから、美容師になる大変さはよく知っていた。手はひどいあかぎれになるし、技術を身につけて一人前になるには何年もかかる。今とは違って、当時はヘアメークになる道筋と言えば、美大で専門的な教育を受けるか、美容師として長く経験を積むかだった。「そんなことしてたら、私、いくつになっちゃうの」という思いが先に立っていた。

ためらいが吹き飛んだのは、高名なヘアメークアーティストに相談に行ったときのことだ。「10年後、どんな仕事をしていたいの?」と聞かれ、「一流の仕事ができるようになっていたい」と答えた。「一流になりたいなら、どうしてヘアをやらないの。ヘアもメーキャップも両方できなきゃダメよ」

とにかく早くヘアメークの技術を身につけたい。

たまたま入った本屋で、英国ロンドンの有名美容室ヴィダルサスーンの美容師学校を取り上げた雑誌を見つけた。ハサミを持ったことのない人でも10カ月で美容師になれると紹介されていた。「ここだ! 私の行くところ」。沸き立つ思いで実家に電話すると、母の千鶴さんが「すぐにでも行きなさい」と背中を押した。

「クビってことですか?」

大学卒業後、23歳で渡ったロンドンでの生活は楽しいことだらけだった。最初は英語に不自由したものの、手先が器用だったからヘアカットの技術習得に苦労は感じなかった。世界的に活躍する美容師が間近にいて、流行に敏感な人たちが多いロンドンの空気を思い切り吸い込んだ。

ロンドン留学時代の郡司成江さん
ロンドン留学時代の郡司成江さん=本人提供

美容師になったのだから、いずれは実家の美容室を継ぐことになるかもしれない。何となく感じて始めたが、学校修了後も英国にとどまり、ロンドンのヘアサロンで働き始めた。千鶴さんも、あまりに早く呼び戻してはかえって反発されるから、しばらくは自由にさせようと考えていたようだった。

「そろそろ日本に帰った方がいい」。渡英から2年半たったある日、サロンのオーナーから意外な言葉をかけられた。「クビってことですか?」。オーナーは首を振って「そうじゃない。ずっとロンドンにいてほしいけど、あなたはずっとここにいられる人じゃないでしょ」と告げられた。

恩師の助言「一番大変なところに帰りなさい」

ロンドンでは、人気サロンでも午後6時には営業を終えて帰宅できる。それに対して、当時の日本は閉店後にカットの練習が始まるため、日付が変わるまで働くことがざらだった。ロンドンでの働き方に慣れてしまったら、日本には戻れなくなってしまう。

ずっとロンドンにいたかったが、オーナーの心遣いは理解できた。

それまでにも、東京の有名美容室から誘われたことがあったから、「東京で修業することにします」と言うと、再び意外な返事が返ってきた。「何を言っているの。若いのだから、一番大変なところに戻りなさい」と諭された。

現在のビューティアトリエ本社

「一番大変なところ」。それは、実家のビューティアトリエ。その頃には店舗数が増え、60人もの美容師を抱えるグループに成長していた。英国修業を終えた跡取り娘が実家に帰る。波乱が起きるのは、火を見るより明らかだった。

<2話に続く>

わたしのファミリービジネス物語」では、地元に根ざして、自らの力を磨くファミリービジネスの経営者や後継者、起業家の方々を紹介していきます。波瀾(はらん)万丈の物語には、困難を乗り越える多くのヒントが詰まっています。

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