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小学生の頃、道徳の時間に読んだ「青の洞門」は実話か創作か?

🟣小学生の頃、道徳の時間に「青の洞門」と言う物語を読んで感動したのを覚えている。

覚えているあらすじは、こうだ。(なんせ、40年も前の記憶なので勘違いもあるかもしれない💦💦)

ある僧が、ある村にたどり着いたが、そこの村人は、危険な崖になっている山を越えて物質の移動をする必要があった。

その崖を越えるのは非常に危険で、物質を運ぶ馬や人が命を落とすことがあった。

そのことを知り、その僧は、山に洞窟を掘って通り抜けることができれば、多くの命を救うことができる、と考えた。

しかしながら、山に洞窟を掘ると言っても、人の手で硬い岩盤を掘り進めるのは、見るからに困難を究めることが予想できた。

実は、その僧は若い頃、盗みや人を殺める罪を犯し、その罪滅ぼしに僧となり、修行の旅の途中で、その村にたどり着いたのだ。

その僧は、岩盤を掘り始めた。彼が、岩盤にノミをいれた。すると、ほんの小さな、小さなひとかけらの岩盤が削れただけだった。

それでも、その僧は、村人のために掘り進めた。

何年かたち、その話しを聞きつけたある若者が、僧の元にやってきて自分も手伝う、という。そうして、その若者も一緒に洞窟を掘ることとなった。

更に何年もたち、あと一息で、洞窟が繋がるところまできた。

そのとき、その若者は、僧にあることを打ち明けた。その若者は、その僧に殺められた人の息子で、親の仇でその僧を探してやってきた。

しかし、その僧が、一心不乱に村人のために何年もの間、いかなる困難をもろともせず洞窟を掘り続ける姿を見て、その若者は、親の仇を討つためにその僧を殺すことをやめ、洞窟は無事に貫通した、という話しだったと思う💦💦

その僧が、岩盤にノミを入れたが、ひとかけらの石が削れただけだったが、気の遠くなるような作業を続けた、と言う点が特に印象に残っている。


🟣昨年、国内旅行業務取扱管理者試験の国内地理の勉強をしているとき、この青の洞門は、大分県中津市本耶馬渓町樋田に実在する隧道(トンネル)だと知った。

どうやら、この道徳の時間に読んだ「青の洞門」は、1919年(大正8年)に発表された菊池寛の『恩讐の彼方に』が元になっている。

この『恩讐の彼方に』では、隧道は「樋田の刳貫」と呼ばれ、「青の洞門」という名称は用いられていない。また、主人公の僧の名は、禅海ではなく了海とされている。


🟣禅海和尚

菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の主人公「了海」(俗名・市九郎)のモデルとなった和尚。

「恩讐の彼方に」の中では、主である旗本中川三郎兵衛を殺害して、その妾と出奔、木曽鳥居峠で茶屋経営の裏で強盗を働いていたが、己の罪業を感じて出家、主殺しの罪滅ぼしのために青の洞門の開削を始め、後に仇とつけ狙った三郎兵衛の息子と共に鑿ったものとされるが、主殺しなどのエピソードは菊池の創作だ。


●実際の禅海和尚の経歴

元禄4年(1691年) – 安永3年(1774年))

江戸時代中期の曹洞宗の僧。

越後国高田藩士の子。

本名は福原市九郎。生年については貞享4年(1687年)説もある。

詳しくは、真如庵禅海といい、江戸浅草の住人、祖先は越後高田の福原氏であるといい、もと籍を曹洞宗に置く六十六部であった。

両親が亡くなった事から世の無常を感じて出家し、諸国を行脚、正徳5年(1715年)に得度して禅海と称した。豊前国(今の大分県)耶馬渓の青の洞門を開削したものとして知られる。

回国の途中、豊後国羅漢寺を参詣した時、川沿いの断崖にかけられた桟橋、青野渡が危険で、人馬のしばしば覆没することを知り、これを哀れみ、鑿道の誓願を発し、陸道の掘削を思いついた。

1730年(享保15年)頃、豊前国中津藩主の許可を得て掘削を始めたが、その後周辺の村民や九州諸藩の領主の援助を得て30年余りの歳月をかけて、1763年(宝暦13年)に完成させた。高さ2丈、径3丈、長さ308歩。

開通後、通行人から通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路とも言われている。

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青の洞門付近にある禅海の像↑

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青の洞門↑


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競秀峰と青の洞門↑


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