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【長編】奇しき世界・三話 異界喫茶(前編)

1 岡部弘保

 九月二十五日。千堂宅には千堂斐斗しかいなかった。
 五十嵐耀壱は仕事の都合で留守にしている。情報収集や打ち合わせなど、外出する機会が多い耀壱が、年間通して在宅している期間と外出の期間は半々である。よって、この日たまたま耀壱が留守なのではなく、よくある内の一日であった。しかし広沢一家が総出で留守にしている時と被るのはまさしく偶然であった。

 広沢家主人・平祐(へいすけ)、妻・美野里、長女・真鳳、長男・凰太郎の一家は平祐の実家へ帰っている。平祐が前から帰省の計画をたてており、職場にも前もって四日間の休日届けをだしていたので、三泊四日、千堂家にはいない。
 四日間家には斐斗以外誰もいない。つまり、来客が訪れた際も斐斗が対応するのは当然であった。

「おんや、意外だったなぁ。斐斗の淹れる紅茶が美味しいとは思わなかった」
 鼻の下に髭を蓄え、頭全体の肌が薄っすら見える程に毛髪量は寂しく、額、目尻、ほうれい線などの皺がしっかり刻まれた五十後半か六十代と思われる男性・岡部弘保(おかべひろやす)は、紅茶を一口啜ると、ティーカップを小皿の上に置いた。

「結構好きですよ、緑茶、紅茶、珈琲を淹れるのは。暇な時は淹れる時間も香りを堪能できますから」
「洒落た趣味してるなぁ。それに、美野里さんのも美味いけどこれも中々。斐斗にこんな特技があると知ったのが今日一番の収穫だな」

 岡部弘保は人間である。しかし普通の人間でもない。とはいえ、奇跡に干渉されたわけでも才能として力を備えているわけでもない。

 現世と同じ景色、同じ変化。全く同一の世界でありながら、現世に存在する動物が一匹もいない世界、【静奇界(せいきかい)】と、関係者が称する世界がある。レンギョウが出現する世界はこれに当たる。
 岡部弘保は現世と静奇界を行き来し、肉体そのものは静奇界に属している人間。故に、現世に現れる異界の存在である。普段は静奇界に住み続けているが、仕事や趣味など、度々現世に現れる。しかし体質上、滞在期間は十日が限界であり、期間を過ぎれば強制的に戻されてしまう。

「本題に入らせてもらいますけど、何があったんですか? 電話連絡重視の岡部さんがわざわざ来るなんて珍しい」
「おやおや、ワシが幼い頃から見てた斐斗に会いに来たと思――」
「――思いません」

 断言で岡部の言葉を遮った。遮られて岡部は口をへの字に曲げ、眉を上げた。

「岡部さんは昔から俺を揶揄うのが趣味な方だ。よって、俺がこう思うのは自業自得と思ってください。何もなければ即刻帰っていただけ――」
「分かった分かった。それに趣味じゃない、愛情だ」両手を斐斗に向けて制した。
 斐斗が僅かばかり眉間に皺を寄せるのを見ると、頭を撫でながら「やれやれ」と呟いた。
「冗談はここまでにしとこうか」両手を膝に乗せ、背凭れに身をどっしり預けた。「この街の、とある喫茶店の奇跡の話だ。別段、我々に対しても脅威があるわけじゃあないし、人間に多大な被害が及ぶわけでもない。ただ、”時が止まる”んだ」
「一部の空間だけの停止ですか? だったらもっと騒ぎになってる筈だ」

 返答しつつ、自分が贔屓にしている喫茶店ではないかと思い巡らすも、ここ数日でそういった奇跡が起きておらず、そこではないと確信を得た。

「“時が止まる”ってのは語弊だな。正確には、”ある時間帯だけ同じ時間を繰り返す”って言い換えたほうがいいな」
「時間のループですか?」
「ああ。午後二時から三時までの一時間。その間だけ店員、客、メニューから雰囲気、落ち葉や木々の色合い葉の数など、細かい所まで。まるっきり同じ一時間をくり抜いたかのように延々と、その一時間を続けている。理由はまるで分からん」

 斐斗は又聞きの情報と過去の経験から考察を巡らせたが、当然情報が不足していて切り込みようがない。なにより見てすらいない喫茶店は想像しにくい。よって、岡部と共に向かう提案を下した。

「ちなみに、今回の件、『組合の方々』はどういった判断を下してるんですか?」

 岡部の所属する組合とは厳粛な組織ではない。静奇界に身を置き、静奇界から奇跡の現象を観察し、対処に当たる指令を下す者達を指す。存在するモノ達は、姿ある者や意志だけの者など様々。岡部のように現世滞在期間が決められている者もいればその逆の存在もいる。

「連中は現世の奴らに預けるってよ。これと言って害はないし、変化も大したことないからこっちでどうとでもなるだろうって。良かったな、お前の信頼は組合連中には厚いぜ」
 斐斗は珈琲を一口飲み、僅かばかりの不快感を溜息と共に吐き出した。

2 喫茶店の老人


 午後二時四十八分。斐斗と岡部は奇跡が起きる喫茶店を眺めていた。場所は道路を挟んで向かいのコンビニ前からである。
 一見して喫茶店は何の変哲もない『日常の風景』そのものであった。しかし、どうしてもこの時期では不自然極まりない部分が目立つ。
 木の葉の色。落ち葉の量。秋真っ盛りか終わり頃と言わんばかりにこの二つが他の木々と違って時の進行具合の異様さを物語っている。

「確かに、あそこだけ季節が進んでいるな」
 さらによくよく観察すると、外で注文している三組のうち二組はスーツ姿で現在の季節とあまり変わり映えはしないが、一組の客が来ている服が今の気候では厚着の部類に入る。斐斗は十二月前後の期間だと推理した。

「通り過ぎる通行人も不思議がらずにいるから、気付いてないか見えてないんだろうさ。もしくはワシらみたいに見える奴以外は普通の喫茶店に見えるのかもな」
 岡部がスーツの内ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認すると、「残り三分だ」と告げた。

 静奇界で作られた岡部の懐中時計の精度はスマホの時計同様に高く、けして狂いはしない代物である。
 残り時間と聞いてすぐ、屋外席に座る一人の老人がにこやかな笑みを浮かべて二人のいる方を見て来た。その視線を斐斗は気付き、微かに眉を顰めた。

「どうした斐斗」
 岡部はジッと一点を見つめる先を眺めた。
「いや、あの老人……」

 斐斗が呟いて岡部はその老人を探そうとするも、間もなく奇跡が起きる時間を経過し、喫茶店の光景は元に戻った。
 奇跡が起きている間の光景と元の光景は、明らかに客の数、服装、木々の葉の色合いなど、まるで違った。そして、斐斗の見た老人の姿も消えていた。
 岡部が「老人などいなかったぞ」と返され、その場は気のせいかもしれないと判断したが、どうも斐斗の脳裏には老人の姿と笑顔が残ってしまった。


 帰宅し、斐斗は珈琲を二つ淹れて応接室のテーブルに置いた。
「さて、どう出る? このまま経過観察か、乗り込むか」
 珈琲を一口飲んだ斐斗は即決した。
「考えるまでもない。喫茶店へ入る」
「その心は?」
「乗り込む判断材料は二つ。一つは経過中も経過後も通行人が普通であった事。奇跡が起きれば何かしらの気付きや変化を起こす者が少なからずいる。しかし喫茶店前を通りすぎる人達にはそれが無かった。それはあの空間自体を強引に変えたのではなく、奇跡が起きたためにああやって別の時間帯の光景が滲み出たにすぎないと仮設が生まれる」
「ほう、奇跡の余韻か。もう一つは?」
「一般人には見えないが俺たちのような存在には光景が見える。そういった奇跡は、その空間に足を踏み入れないと本質そのものが見えないケースが半数を占める。本命の影響でああ見えたのか、わざわざ奇跡の幕で本命を包んでいるのか。どうあれ、アレは外からじゃ何も分からない奇跡なのは明確だ」
「長年の勘ってやつか、親父さんの受け売りか?」

 また、珈琲を飲んだ。

「両方。……それにあの老人、アレがどうにも気になって仕方ない」
「斐斗にだけ見えた老人か?」
「岡部さんが見てすぐ元に戻ったから気付かなかっただけですよ。あの老人は確かに俺を見て微笑んだ。向こうは俺に気付いてるのか、あの光景の内部で老人には何かが見えて反応しただけか。それだけでも解決の糸口になる可能性は含んでいるかもしれない」

 岡部は頭を摩ってソファに凭れ、天井を眺めながら深い溜息を吐いた。

「……まあ、斐斗の長年の勘を信じて乗り込むが、少々博打が過ぎやしないか? 土着型だった場合、下手すれば……」
「それには保障があります。一応調べますが、岡部さんの心配は杞憂になると思いますよ」
 どこからその自信が来るかは分からないが、岡部はとりあえず斐斗を信じる事にした。

3 奢り

 翌日午後一時四十分。二人は昨日喫茶店を眺めたコンビニ前で待ち合わせた。
 周囲の光景も件の喫茶店も、日常よく目にする人の行き交う風景となっている。とはいえ、喫茶店は二時から一時間だけ秋の風景に様を変えるというのだから”不思議な時間を備えた風景”と思うと変な気持ちである。

「ちなみに斐斗、奢ってもらっていいか?」

 藪から棒に言われ、さすがに喫茶店を集中して見ていた斐斗は「はぁ?」と返答が零れた。
「何言ってるんですか」
「いや、実は現世来たら絶対飯は食うぞって決めててな。ワシはこんな存在だろ? つまり持ち合わせが無いのは言わんでも――な?」表情でさらに昼食を求めた。
「つねづね思っていたんですけどね、仲介役連中で同盟でも小規模組織でも拵えて、岡部さんのような“半人間”専用の生活資金を管理する方がいいのでは」

 半人間という言い回しは、岡部のような存在がわがままやおねだりを言ってきた時に斐斗は使っている。

「上手い事言うな。一応考えておこう」
 けして考えないであろうことは、容易に想像がつく。なぜなら、岡部はそう言った後、すぐに自分の求める本題に入るからであり、
「さておき、二千円超えないようにするから、飯食わせてくれ」こう言いだしたら、昼食後には忘れていると、長年の経験上、斐斗は理解している。

「高すぎです。まあ、入ったこと無い喫茶店ですので、メニューを見てから決めさせてもらいますよ」

 岡部に喜びの表情が浮かんだ。


 喫茶店内は特に変わったところは無い。
 内装は派手でなく老若男女問わず来店しやすい雰囲気を抱かせ、慌ただしくない印象を受ける店員の落ち着いた働き、八組程の客、珈琲の香りが入店時に鼻腔を擽る。初見の印象で斐斗は好感を抱いた。

 愛想の良い店員に案内され、二人掛けの席へ着いた。
 岡部はすぐさまメニューを開き、三種類あるサンドイッチのセットメニューから一つを選び、斐斗の珈琲と一緒に注文した。

「さてっと、どう見るよ斐斗。店内は別段変わったところは無く、メニューもそこそこ豊富。メニューの写真映りもいいから美味しそうに見えるし全部食べて――」
 無駄話と分かり、微かに呆れ顔を表した斐斗の言葉がすかさず遮った。
「――そこまで。関係ない話です。まあ、俺も店内に入れば少しは奇跡の影響による綻びがあるとは思ったが、至って普通の喫茶店だ。俺好みの店でもあるから今後とも使わせてもらおうと思う」
「お前も無駄話してんだろ」呟きが漏れた。

 二人は注文の品が来るまで他愛ない世間話に興じた。
 午後一時五十八分。先に二人分の珈琲が配られた。

「サンドイッチの方はもう少々お待ちくださいませ」
 そう言って店員は調理場へと向かった。
 岡部は懐中時計を開いて時間を確認すると、カップを持って一言発した。
「……そろそろだな」
 珈琲を一口飲んだ斐斗は、「ああ」と返し、カップを皿の上に置いた。
 背もたれに深く凭れ、腕時計の秒針を確認した。

 残り十五秒。
 秒針の刻む音がやけにしっかりと聴こえ、集中していると周りの声や音が聴こえなくなっていた。それ程二人は集中していた。

 残り五秒。
 斐斗は、静かに、大きく呼吸した。

 残り四秒……三……二……一。

 午後二時。時間通りに喫茶店は変化を遂げた。しかし、二人が思い描いていた展開とはまるで違う事態に陥った。
 二人は驚きのあまり目を見開き、立ち上がって店内を見回した。

4 消えていく

 午後二時を迎え、喫茶店内部はまるでウッドハウスの中の喫茶店と言わんばかりに、床、天井、壁。テーブルや椅子に至るあらゆるものが木で出来ていた。壁や柱にランプが備わり、それぞれの中には太い蝋燭、そしてすべてに火が灯っている。電気製品と呼べるものが店内には見当たらなかった。
 席の配置は元の喫茶店と同じ並びであり客人達も同じ場所に同じ姿でいる。変わったのは店内。そして、
「斐斗、テラス席を見ろ」
 語気から驚き具合が高いと伺える岡部の指示に従い外に目を向けると、そこは道路も建物も通行人もいなかった。いや、それどころか日常の光景とは全く違っている。

「……川?」
 外の景色は、昨日コンビニから眺めたように枯れ葉が散り、地面が落ち葉で隠れる程である。川の光景はどこかの河川敷のように平地に川が流れている。時間は午後二時だが、日の傾き具合、淡い茜色に染まる風景、緩やかに波打つ水面は陽光を反射させ煌いて見える。
 長閑で心地よく、呆然と眺め続けていたい光景である。

「斐斗どうするよ。結構土着型っぽいぞ」
 ふと、斐斗は微かな異変に気付いた。それは気にしなければ中々気付かないと思われる異変だが、その気付きはまさしく偶然であった。不意に見かけた隣席の男性客の姿がどこにも見当たらなかったのである。
 異変に気付いた斐斗は岡部に報せ、一緒に店内にいる客人が減ったか、もしくはいなくなる状況を確認した。
「ドンピシャだぜ。どっから出てるか分からんが、客がちょいちょいいなくなっていやがる」
「けどどうして入り口から誰も出ない?」

 ずっと入り口を眺めても誰一人として出入りがない。
 どういった条件で客人が消えるかを証明するために、斐斗は原因の一つ一つを証明するため行動に出た。

「……おい斐斗、どこへ」
 向かった場所は当然入り口であった。不思議と店員は斐斗を呼び止めも見向きもしなかった。
 斐斗がドアの取っ手に手を掛けると、ドアが意味を成さない事が判明した。
(――開かない⁉)
 一つ、入り口から客人が出入り出来ないと証明された。これにより、“客人は斐斗と岡部の眼に触れない所で消えている”仮説が生まれ、一つの試みも芽生えた。
「岡部さん、一度試していただけますか?」
 岡部の元に戻って斐斗はそれを実践してもらった。それは、喫茶店から静奇界へ戻ってもらう、である。

 岡部は静奇界へ戻る時、どこに居てもそれが可能となる。故に、滞在期間満期を迎えてもすぐに戻る事は出来るし、期間を満了しても岡部が意識しなくても静奇界へ戻される。
 こういった神隠しめいた現象が起きると誰かに気付かれる危険性を孕んでしまう。しかし静奇界の住人は、現世では虚ろな存在であり認識されたりされなかったりを繰り返す体質を備えている。

 よって、静奇界へ戻ろうとする数分前から特定の人間以外の現世の人間には認識されなくなる。急遽帰還を強いられる状況に陥ったところで、岡部の虚ろ状態は健在を保ち、現世の人間の目の前で消えたとて、その人間には、何か分からないが何か消えた程度の、微々たる変化しか感じず、じきに気にもとめなくなる。

 岡部は早速静奇界へ帰還しようと念じた。
「……え?」
 いつもなら、念じたらすぐに消えるはずが、どういう訳か一向に消える気配はない。
 もう一度帰還を試みたが、結果は同じであり驚きが際立った。

「おいおい、どうなってやがる」
「きっとこの現象内では、帰還そのものが不可能って事なのでしょう」
 では、消えた人間はどうなってるのか? その疑問が芽生え、同時に、今までこのような人間消失現象が起き続けたのなら、行方不明届が出され、ニュースに上げられてもいい程だと思われる。
「これは俺の思いついた仮設でしかないですが、もしかしたらこの喫茶店では人が次々に消えている神隠しが起きているのかもしれません」

 今起きてる現象から、岡部も容易に想像できた。

「するってぇとアレか? この一時間の間に、来店した奴らは次々消えていってるって事か?」
「消えてるだけならそうなります。奇跡で人間が消えても、場合によっては認知されないですから。しかしこうも大人数が日に日に消えていたら、流石に現世でも影響が及ぶ筈」
 斐斗は元の席に座り、続きを語った。
「ですが現世では人間の大量消失事件に関してのニュースすら取り上げられていない。それは、何らかの原則が働き人間が元に戻ったか、それを補う別の人間が現れたか、もしくは別の理が働いたか。とにかく何かが起きているのは確かだ」

 斐斗の推理に岡部は感服し、じきに斐斗が解決してくれると安堵の想いが生じた。
 一方で斐斗は焦っていた。

(まずい、かなりまずい状況だ。岡部さんの言うように、これは土着型の可能性は高いが……いや、土着型の基盤をこの店は備えていない。なら、新しい土着……まあ、もしそうであったとしても出口はすぐに探さなければならない。このままだと俺のリバースライターすら使えない。……時間がない。何か解決の糸口は……)
 斐斗が考察を巡らせた時であった。

「お待たせいたしました」
 店員が岡部の注文したサンドイッチをテーブルの上に置いた。
「どうぞごゆっくりと」
 店員が戻り、岡部は席についた。
「斐斗……解決出来そうか?」
 斐斗は冷めた残りの珈琲を一気に飲み干し、無理やり焦る気持ちを落ち着かせた。
「しばらく考えてみます。岡部さんは昼食をどうぞ」

 言葉に甘え、岡部はサンドイッチを食べた。場違いと思い言葉に出さなかったが、予想以上にサンドイッチを美味しいと感じた。

 斐斗は、両肘をテーブルに乗せ、手を合わせて口元に当てて考察を巡らせた。

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