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【二十四節気短編・穀雨】 バス停の二人

1 ビニール傘の女


 四月の二十日頃に降る雨を“穀雨こくう”といい、種まきや育苗いくびょうに必要な雨とされる言葉である。
 その年の穀雨は温暖化の影響だろうか、『豪雨』とまではいかないでも大雨の部類に入る程、雨量が多く体感温度は生温かった。

 その日、男は周りの風景がいつもと違うように見えた。それは、この時期には珍しい大雨ゆえに、心なしか見え方が違うのかもしれないが……。
 男は何気ない気持ちで歩き、立ち寄った所は、学生時代に利用していたバス停であった。
 現在も使用されているバス停だが、田園沿いに設けられたバス停は昔から変わらず鉄柱に屋根が付いているだけで、その下にベンチが二脚設けられている。
 昔と違う変化があるとすれば、ベンチが木製の新しいものに変わっているぐらいだ。

 男は雨宿りと休憩の為にベンチに腰かけると、ついつい昔の事を思い出していた。

 嫌な授業、宿題、テストの事で友人と愚痴った事。
 好きなアイドル、女優、女子生徒の話。
 テレビ番組やラジオの話。
 色々な記憶が浮かび上がる。

 男は自慢ではないが学力は良い方ではない。それでもここまで思い出せるのだから、”学生時代の記憶”というのは本当に貴重なのだろう。
 もう戻らない楽しかった高校生時代だが、
 “あの頃の自分がこんな未来を送ると知れば、輝かしい笑顔も消えてしまいそうだ”
 と反応を想像出来てしまう。

 何分経過したかは分からないが、男が茫然と雨天の田舎風景を眺めていると、一人の女がバス停に向かって歩いて来た。
 シンプルな男物の白いシャツにベージュのズボン、ビニール傘をさしている。
 女性なら春の流行ファッションを着たり、そういうものに疎くても、それなりに見た目を気にするとは思うが、バス停に来た女性に対しては、ファッションの知識がほぼ無い男には、
(センスの無い女性だろう)
 と思ってしまう程、女性の服装は良いといえない。

(……可愛い顔なのに)
 男が心中で呟かせる見た目を女性は持っていた。

 黙ったまま別々のベンチに座る二人の表情は、共に空虚な眼で田園風景を眺めていた。

2 高収入の家政婦


 女は大雨の中、逃亡を実行した。季節は春、時間は昼間の事。


 ある田舎に、ひっそりと佇む洋式の屋敷があった。
 屋敷の主は結婚していないものの、住み込みの家政婦を雇い生活していた。
 現在、家政婦の人数は二人。もう十年も働いていた女性と、雇われて一年目の女であった。年齢は二十二歳と若い。

 女は他所ではけして稼げない程の高い給金を貰えるこの仕事を失いたくない一心であった。
 学生時代は貧乏生活を送っていた為に、大人になったら金持ちになりたい想いが強かった。その強い意志に加え、一年前に大病を患い、入院を余儀なくされた母の治療費を稼がなければならない状況となった。
 とはいえ、女にはとりわけ役立てる資格なければ技術もない。成人してからもバイト生活を送り、楽して大金を得るにはどうするかを考えて生きて来た。
 高収入を得るには、一攫千金の大博打で稼ぐか、風俗の仕事に出向くぐらいしか思いつかなかった。

 地道にコツコツ、一般の人達が稼ぐ低賃金と節約生活で母の入院費を稼ぐという手もあったが、女にその生活を送る気持ちが無い。
 “出来るだけ高い賃金の仕事を”
 とばかりに思考が働いてしまい、その一点でのみ仕事を探した。

 インターネットで検索し、やたらと短時間で高額収入を得れる広告が目に留まったが、『それ等は危険である』と、色んな人達から教わっており、手はつけなかった。

 世の中は全くもって甘くない。

 その言葉を痛感するほどに、女は働く場所が見つからず焦燥を募らせていた。そんな折、天から与えられた恵みとばかりに、友人の知り合いの伝手でこの屋敷の住み込み家政婦の仕事に辿り着いた。
 なぜこんな高額賃金なのかは分からないが、女はすぐさま飛びついた。

 仕事の状況は、先に居た女性の指示に従い、何度も何度も注意され、態度や言葉遣いも指摘され、毎晩礼儀作法と言葉遣いに関する本を読み続けた。

 どうにかこうにか半年続いたある日の事、先輩家政婦は、主との話し合いにより住み込みではなく通わせてもらえるようになり、勤務日数も減った。よって、女は仕事をしながらも気を抜ける時間が増えた事に些細な喜びを覚えた。
 高額収入、先輩家政婦と会う日が減少、主は怒鳴らない普通の男性、勉強も出来て将来役立つ知識が付く。
 女は、最高の仕事に就けたと実感し、快い日々を過ごした。

 しかし、そんな幸せの時間は短かいものであった。
 女はまだ知る由すらない。先輩家政婦がいない日数が多いということは、主と共に過ごす時間が長くなる・・・・・・・・・・・・・・という事を。

 主は午前九時に仕事へ向かい、夕方四時から五時には家に戻る。

 女がその事態を初めて体験したのは、一人立ちのように仕事を任されて二週間後の事であった。
 夜八時、突然呼ばれて主の部屋へ向かうと、いきなり襲われたのである。それはまるで強姦のように性交を強要された。

 色白い肌、二十代で若く、先輩家政婦より可愛い。
 物覚えも良く仕事をしっかりと熟す姿は、主の欲求を駆り立てるには十分であった。
 我慢を続け、ようやく手を出せたのだから、女が主の力に抗うなど無理に等しかった。
 主はさんざん女を弄んだ挙句、「口外すればもっと悲惨な目に遭わせる」との脅し付きでその日は解放された。

 この住み込み家政婦の裏の実態、主の性欲を満たす為の相手をしなければならないのだと女は気付かされた瞬間であった。

 翌朝、主は忠告のように裏事情を平然と説明した。
「高収入を散々与えたのだから、それなりの対応をしてもらわねばならない」
 そう言って、ひと月の給料の倍はある札束を封筒に入れて渡してきた。

 女は苦悩した。
 易々と身を汚された途轍もない虚しさ。それでも高額収入を得た喜び。
 昨晩まで、高収入に目が眩み、まるで餌に喰いつく魚の如き安直な自らの知能に腹を立てていた思いが、封筒を手にした事で薄れてしまう。
 このまま手を切る事を考えると、低賃金労働者として一般の仕事で働くのが嫌となる。

 まだいい思いをしたい。
 ここにいれば、少なくとも裕福な生活と、いずれ辞めた時に良い仕事に就くための勉強が出来る。
 毎日ではないんだ、主の相手だけ・・をすればそれでいい。

 自らを安心させるための思考を巡らせると、主の見た目も見ようによっては受け入れる事が出来るだろうと思い込ませ、女は我慢して働き続ける決心を固めた。

『愚か者は、落ちる所までとことん落ちなければ気付かない』
 昔、誰かが言った言葉を思い出したのは、女が”主の性癖を受け入れる”と、浅はかな決心を決めて一週間後であった。

 その日、主は三人の男性を連れて帰って来た。
 突然の客人に女は戸惑い、すぐに支度をしようと動いた。しかし、その客人は普通の客人ではなく、女と行為に及ぼうと集まった男たちであった。
 この屋敷の本当の実態は、主だけが相手ではなかった・・・・・・・・・・・・という事だ。

 心身共にズタボロとなった女は、翌朝、更に分厚い封筒を渡された。
 素直に喜べないのに、どうしても高額の金を受け取ってしまい、受け入れてしまう自分。
 もう、自分の想いすらよく分からなくなった女は、先輩家政婦からこっそり手紙で全容を教えられた。

 この屋敷で主に逆らえば、最悪身売りさせられる。
 今まで、多くの女性が酷い目に遭い、全うな生活に戻れた女性は数が少ない。
 戻れた者は、主が連れて来た男性と良い関係を築き、運良く男性が悪い人間でなかっただけ。

 逃れる術が一つだけ、しかも当たりくじを引くような方法。
 絶望の淵に立たされた女は、もう、真っ当な思考が働かなかった。

 日々、自分の愚かさを恨みながら、この屋敷で生き続けた。

3 逃亡


 女が屋敷の裏の実態を知って半年後の三月。先輩家政婦から”ある計画”を実行すると教えられた。内容は知らされていない。

 先輩家政婦は、その計画の協力者とミスの無いように根回しと練習に励んでいたので失敗したくない為、女に報せ、計画実行日に屋敷を出て行ってもらう予定であった。

 女は先輩家政婦に、”大金より自分の人生を大切にしなさい”と諭され、彼女の言葉を信じて出て行ってもらうように願われた。
 一方で女は疑った。これが自分を嵌める企てであれば、出て行った先でひどい目に遭うだろうと。
 この報せが本当に女を救う手段か、本当の地獄へ突き落とす報せかは分からない。
 いや、女の疲弊しきった思考ではもう、自分に都合の良い報せは、その悉くが自分を地獄へ導く誘い文句としか聞こえない。

 先輩家政婦が計画を実行する前夜。
 翌日から三連休である主は、女に下着姿で過ごすように命令した。
 いよいよ行き着く所まで行ってしまった異常な性癖を露にした主に従い、計画実行日の朝には両手に手錠を付けられてベッドの柱に女は繋がれた。
 逃げようにも逃げる事が出来ない状態である。

 元々、『ある計画』とやらを信じていなかった女は、何が起きても構わないと諦めた。
”もう自分は殺されても何をされてもいい”
 思考そのものが疲弊し、死さえ厭わない状態である。
 ふと、窓の向こうの大雨を茫然と眺めた女は、ついつい幼い頃に母が好きだったクラッシックの音楽を口ずさみ、涙を流した。

 何分経っただろうか。
 主が所要で屋敷を出て行ってから中々戻ってこない。
 いつもなら外から車の音がするのにまるでしない。

 女が不意に異変を感じたのは、車の音が無いのに階段を登ってくる音がした時であった。
(……誰?)
 絶望していたのに、意表をついた異変にはどうしても警戒心と恐怖心が働き、あられもない姿でありながら身構えた。

 部屋の扉を開いたのは先輩家政婦であった。
 溜息交じりに呆れる彼女は、手際よく女の手錠を外した。
 どうやら、”女が逃げていないのでは?”と、勘が働いた為、先回りして逃がしに来たのであった。
 彼女は女に、これから行う事を端的に教えた。

 『ある計画』とは、主の暗殺計画であった。

 先輩家政婦も今日に至るまで散々嫌な思いをしてきたらしく、関係を持った男達の中で主に恨みを持つ者達と結託してこの計画を企てたのだ。

 主は邪な方法で家政婦たちを雇っていた為、雇われた者達は無職者扱いである。よって、女が逃げても他の者達にバレないだろうから、とにかく逃げて、真っ当な人生を送るように。
 と、逃げる前に命令された。

 適当にあった服を着たのでポケットにお金があるなんて幸運はある訳が無いし、かなり服がダサい。
 車も無く、お金も先輩家政婦から渡された五千円のみ。急いでいたので財布を忘れてきたのでかなりの痛手である。
 さらに不安があるとすれば、この地域から実家へ帰るには五千円で何処まで行けるか分からない。

 女は途方に暮れながらも近くのバス停へ向かうと、一人の男性がベンチに座っていたのを目にした。
 全く赤の他人でしかない男性を、主の関係者か先輩家政婦の知人かもと、疑心暗鬼を生じてしまった女には、何もかもが恐怖の対象にしか見えない。

 女は不自然と思われるかもしれないと思いつつ、男性から離れた所に腰かけた。

4 バスが来るまで


 バスを待ち続ける時間は途轍もなく長く感じる女と、時間の経過がどうでもいいとすら思っている男。
 二人だけしかいないバス停に、雨はさらに勢いを増し、騒音を高めた。

 女はおどおどしながらもバスの時間を確かめ、近くに時計が無いのでやきもきしていた。
 いよいよじれったくなったのか、意を決して男に訊いた。

「……すいません。……時間、教えてもらえますか?」

 男はどこか虚ろだった意識が現実に戻されたかのように、はっ、として腕時計を確認した。時刻はバスが到着する十五分前であった。

 もう十五分で嫌な世界から解放されると安心する女は、次の不安が過ぎった。それはお金の問題。
 今まで大金の稼いできた女が、まさかこの逃亡時に五千円しか持っていない痛手を負い、不安でしかなかった。

「……度々すいません」

 時刻を訊いた時、この男が主とも先輩家政婦とも無関係だと直感した女は、今度は自分が向かおうとする場所へはいくらで行けるかを訊いた。
 男は「知らない」と答え、どうしてそんな切迫した状態で向かうのかを尋ねた。
 女はどう説明しようか迷いつつも、本当に情けなく「色々あって」と、細々とした声で返し、小さく一礼して前を向いた。

 これ以上不審に思われると、この逃亡が台無しになってしまう不安が過ぎる。そう思うと、心臓の鼓動の高鳴りと同時に、(早く、早く)と、バスの到着を切望する感情が強くなった。

「はい」
 突然、男が声を掛けたので、何かに怯えるように、全身をビクつかせて向いた。すると、男は二つ折りの五千円を渡された。
「え、こんなに……。頂けません」
 女が断るも、男は強引に手渡した。理由を告げられず、そして遮るかの如くバスが到着した。
 女が男へ申し訳なさそうな表情を向けるも、「気にするな」と返される。

 女は深々と一礼すると、バスへ乗り込んだ。

 不安は多い。
 置いて来た所持品から、自分の事が誰かにばれてしまうのではないか?
 これから、本当に自分は全うな人生を送れるのだろうか?
 主が今、殺されているなら、自分は犯罪者扱いされるのだろうか?
 色々悩むも、このような顛末を迎えたのは自らの浅はかな考えによるものである。
 今回は、こうやって逃げる事が出来た。しかし、次に同じような事が起きても逃げる事が出来るか分からない。
 もし、無事に逃げきれて、主との関係が完全に断たれるのであれば、生き方を変えよう。どれだけ大変で貧しい日々を送ろうと、真っ当な仕事に就き、普通の生活を送ろう。
 そう、心に決めた。

 かくして、女の逃亡は達成された。

5 不明


 男は女の乗るバスを見送り、再びベンチへ凭れて深々と溜息を吐く。
 あの女がどうしてあそこまで何かに怯え、あんなセンスを疑われるような服装をし、スマートフォンもお金も持たずにいたかは分からない。
 けど、最後に渡した五千円は、男の咄嗟の判断か、僅かばかりの贖罪の表れか。
 なんとも言えない思いであった。

 男は今日、一人の男性を殺した。
 その男性は男の妹を自殺に追い込んだ張本人である。
 どういった事情と経緯で妹を追い込んだかは分からないが、男性への憎悪は日を追うごとに増大した。

 今日、人目に付かない廃屋へ男性を呼び、こっそり背後から紐を使って絞殺した。
 男は初めての人殺しに恐怖し、急いでその場を離れた。
 推理小説のように、犯人が人を殺して咄嗟にアリバイ工作を練りだす知恵が男には働かなかった。
 殺したことに恐怖し、情けなくも色んな跡を残して逃げた。
 いずれ警察が色々調べて自分は刑務所へ送られるのは時間の問題だと高を括っている。

 だからか、目に映る何もかもがいつもと違って見える。
 昔の自分が、人殺しになる自分を知ったらどう思うだろうかと、バス停にいると、時々そんな過去の自分へ向けての無意味な質問が浮かぶ。


 数日後、男は近所で起きたニュースを観て驚きを隠せなかった。

 その日、二件の火災を報せる内容であった。一件は殺害現場の廃屋。もう一件はなんと、殺害した男性の屋敷である。
 男性アナウンサーが言うには、殺害現場となる廃屋では巻き込まれた者がいないとされ、屋敷の方では焼死体が発見されたという。

 火の勢いが強かったのか、全焼した屋敷から発見された遺体は性別が不明な程の有様だという。この屋敷の所有者である男性だとみて捜査は進められている。

 男が思うには、どう考えても殺した男性が焼死体の方だとしか思えない。しかし、なぜ廃屋から移動しているのか疑問が残る。それに、遺体の性別が分からない程燃えるというのはどれ程の火力かと考えると、誰かが男性を運んでガソリンか灯油かを撒いて燃やしたとしか思えない。

 男は咄嗟にバス停の女の顔が浮かんだが、あんな細腕の女性が殺した男性を運べるとは思えない。

 男性を焼死に見せた人物は不明なままである。

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